材質


夢のなかで何らかの建造物に入ったことありますよね。
その建造物の材質って、夢から醒めたときに想像すると何でしょうか。
それは意識です。材質は意識です。


ダイヤモンドとか、アスファルトとか、その世界では固かったものも、意識でした。


この世が意識のなかに含まれない根拠とは、大抵の場合
それが継続的で、一貫しているからです。


毎朝起きるたびに同じ場所、同じ状況がある。
継続性と一貫性のためにわたしたちはそれを現実だと捉えます。


ですが、根拠はそれだけです。
意識が材質である可能性は「この世」でもまったく変わりません。
死んだとき、あ、夢でしたと気づけばこの世の材質も意識です。


登場人物の全員も意識ですし、彼らとの関係性も意識、そして私の肉体も意識です。


では「夢のなかで認識していた」自己とは何だったでしょうか。
それは、肉体でしょうか、一定の境界線を想定した観念でしょうか。


何とも言えません。
夢の中の展開はシーンごとに展開しており、その1シーンの構成要素だけを抽出して分離独立した実在であると言うことはできません。
そして夢の中では肉体感覚も希薄で、シーンによっては「自己」という認識もあまり持っていません。あるのは脈絡のない「シーン」です。


それらは全部ひっくるめて意識です。
では、この世も同じならどうでしょうか。


肉体=私という観念を握ったまま、シーンを渡り歩いている「自己」がいますが、本当に実在でしょうか。
夢の構造と同じで、
実在は「シーン」なのではないでしょうか。



エゴ(自我、頭が考える私)は


存在しません。存在する「ような気がしている」だけです。
サングラスから世界を覗いて世界はこんな色だと体感している人が、サングラスを外したときの明るさに気づいて


記憶を持ち込まないときは、明るい
(サングラスをかけないときは、明るい)


と気づいた。
そして同時に


私を感じない


と気づいた。
私とは記憶の持ち込みです。記憶喪失に陥った人が私認識などあるわけがありません。


私(サングラス視野=記憶の持ち込み)って必須なの?


ここでサングラスかけなくていいんじゃないの?という疑問が生まれます。
持ち込もうとしない態度は何をもたらすでしょうか。
これは体感です。言葉で描写できる話ではありません。


記憶の持ち込みはマインドの態度なのであって、
気づきの態度ではありません。初めから気づきは「私」構築に関わっていません。
「私」という記憶持ち込みシステムを幼少期から成長させてきたのはマインドです。


誤解しているのも、マインドです。
苦しんでいるのも、マインドです。


マインドは単独で存在していると今も誤解しています。


ですから、それが本当かマインドを超える視野で発生源から調査しなければならないんです。



怪談は怖すぎたので削除します。物事には限度があるのです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody