自由はもっとも表現しにくいことを自覚する
なぜならもう自由だからです。
もう自由なのに「自由」を表現しようとすると一歩離れてしまいます。
自由とは。なんて言っているその瞬間に自由を見失います。
本を読んでいる瞬間に、文字の言わんとするところに気をとられて、自由が「本を読んでいる」状態を可能にしていることを見失います。
なぜ求めなくなるのかと言えば、もう自由だからです。
ではなぜ求めたのかと言えば、まだ自由じゃないと思っていたからです。
つねに自由です。求めること(不自由すら)も可能にするのが自由ですから。
でも大雑把に分類するなら
自由、か
自由から一歩離れる(見失う)、か
どちらかです。
二歩離れることはありません。
自由、か
自由を見失っている、か
どちらかです。
こうも言い換えられます。
宥し、か
宥しを見失っている、か
開いている、か
焦点を留めている、か
同一視を起こしていない素の状態を空と呼ぶなら
空はあまりに微細です。
心をどこにも留めない無住心(むじゅうしん)の言わんとすることはわかりますが
「どうやって?」
と言っているのが根源の同一視を起こしている(既に焦点が留まっている)「私」発の疑問だと見抜くくらいでないと騙されてしまいます。
態度が事実です。
想念自体が苦しみです。
たった一つの「在る」と
その他全ての「起こる」が同時に存在しています。
疑問、裁く心、違和感、心をよぎる影、
それらすべては「起こる」です。
ですから「在る」の説明、「自由」の説明、「愛」の説明、これらは最も厳しいと言えます。
説明はできないからです。記憶はいまを包めません。
指さしだけができます。
そのため最も正確な指さしは
すべての同一視を取り除くこと、または、わたしでないものすべてを否定すること、
「起こる」すべてを排除することです。
「在る」が体感として伝われば指さしの意味は終わりです。
古今東西の無数の指がまったく同じものを指していました。
もう既にある、これです。
なんでもない、これです。
わたしたちは人間ですらなかった、これです。
非-顕現、非-すべて、これです。
いま、わたしが自由です。
とどまる試練が、愛です。
一つ目=分離がない一つの気づき
たったいま、最初から、もともと、一つ目なんです。
そう「解釈できなかった」または「別の解釈を上乗せしていた」ということになります。
一つ目のわたしたちは、それぞれ最も近い視点の「肉体」を自己として観測しています。
愛着はありますし、彼・彼女には長所も短所もあります。
彼・彼女が単独で個別に存在していると解釈していた間は
「内面の動き」を軽視しています。
その分、肉体の「外部」を重要視しています。
しかし一つ目であったことを思い出すなら、そういう偏見を続けることはできません。
大事な時間と、重要でない時間もありません。
それらは解釈であり、事実ではないからです。
事実は、いまここにあるものです。
いまここに「ない」という解釈も「ある」という解釈もないので、
「あるがまま」です。
人間は善人になろうとしたり、理想に近づこうとしたりします。
でもできなかったり、うずくまってしまうこともあります。
人間だったら、失敗を許さないでしょう。
でも愛は人間をゆるします。
ありのままに見て、なぜか裁いたりしません。
わたしたちは、誤解していたんです。
人間ではなくて、愛だったんです。
自由に操れる、って
自由じゃないです。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody