エクスタシーからの創造


愛ではなくて歓喜、と言えるということは、そういう体感があるということです。
わたしもそうでした。歓喜が強すぎて愛は(確かにあるけれども)二次的で後方に控えていました。


虚空自体が皇を含む動を「引き出した」わけですが、虚空は「動を含むすべて」があります。
それが完全静止しています(動や形を超越するため)。


虚空(静側)と皇(動側)がセットでコインの裏表、二重構造なのは同感です。


皇と、星(わたしたち)は動側(波)で、本来はエクスタシーそのものだというのも同感です。
星の「在り方そのもの」が「愛」なので、「波=愛」です。
星=波=愛です。


皇のもと、星が複数同時に振動したときに生まれる波動が歓喜です。
光のオーケストラです。


ですから歓喜とは星ではなくて、星星です。


虚空(止)=自由
皇(波)=愛
星(波)=愛
星星(波)=歓喜


創造とは虚空からの引き出しですので、
虚空+集中意識(波の基本的な力)=かたちあるもの


です。あの世ではこれが貫徹していますので、想った瞬間にモノや環境が創造されます。
この世では時間制限の意識が創造のエネルギーを瞬間的にプールさせ発現を遅らせます。
ですが、それは意図的に設計されたものです。


ここは星の大浴場ですから創造が目的ではなく、浄化(成長)が目的です。
本を出版するためにこの世に生まれたわけではありません。
引き寄せの法則を用いてうまく創造力を行使するためでもありません。
創造力を行使するだけならあの世の方がよっぽど早いわけです。


あくまでも(計算されつくした)目の前の課題から逃げずに
皇と星を一個の肉体に宿した人として
すべての瞬間に「愛」を見て「愛」を体現することが目標だと感じています。


愛はともにあることですから、星星の歓喜が、エクスタシーが自然と湧き上がります。
今この瞬間に愛で在れば、自然と最適な創造の流れに入ります。



雑巾をかける


どういう経緯か知りませんが、大きなお屋敷の雑巾がけをしなければならなくなったとします。


初めは真新しい作業にはしゃいでいてもすぐに無口になります。
掃除の量は半端ではなく、希望もなくします。


何らかの意味を持たせようとしても、雑巾をかけることに雑巾をかけること以上の意味はありません。


喜びは、雑巾をかけること自体から湧き上がるしかありません。


雑巾をかけることに対して
「つまらないだろう」
「やっぱりつまらない」
そういう先入観を持っていては経験するのはその先入観になります。


雑巾をかけることを経験しているわけではありません。


雑巾をかけることから逃げずに


ただ雑巾をかけるなら


雑巾をかけることができます。



覚醒はヒントを明滅させている


普段は意識することのない情報を、すべての瞬間、どんな局面においてもわたしたちは取得しているのかもしれません。


「聴く意識」になっているかどうか、耳を傾けているかどうかが受け取る人の共通項ではないでしょうか。


今この瞬間、それらしき答えが目の前にあるかを問うのではなくて
受け取っている姿勢かどうかを問うなら変わります。



衝突する意識より
衝突しない意識のほうが広くて深いのではないでしょうか。


それは空間の意識、調和の意識、オーケストラ結成の意識です。


実のない虚の意識です。
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