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とつぜん真っ暗になった場合「見えてるありがたみ」が浮き彫りになります


でもそうならないかぎり「見えてる」ことがありがたいとは捉えがたいものです。
当たり前だと思うことに感謝などできません。
では本当に当たり前なのかと言えば、当たり前ではないんです。


闇に包まれて初めて「光」に照らされていたことに気づきます。
では「光」は失われたのでしょうか。
失われていません。何かが闇を照らしているから「闇」を体験できます。


闇は「見えてない」ことではなく「見えてる」ことです。


愛の光とは不思議な実体です。
それは愛なのか、光なのか。


闇に包まれて「光」に感謝するのであれば、闇を闇として照らしている「光」にも感謝することになります。同じものだからです。


闇を闇として照らしだすのが「愛」です。


無知を無知として照らしだすのが「愛」です。


この現状が、100%いまが、どれだけ愚痴にまみれていても、100%愛です。


いま(自分という観念があったとしても、自分に)寄り添っていることが「愛」です。


だから胸があったかくなることは自然なことなんです。
自分を批判して、裁きつづけている人の心が休まるわけがありません。


いまの自分をゆるすこと。認めること。ほっと息を吐くこと。


フィオラは愛を茜色と表現していました。
なぜ愛を求めるのですか。あなたがたの傷口から流れる血は茜色です。
愛と涙は同じものです。無知と叡智は同じものです。


尾崎豊の15の夜だって、愛ということです。



実体があると想像するのをやめること


何に対しても、実体と想像は相反しています。
実体は存在であって、想像する必要がありません。
いまは実体がないけど、過去か未来に実体をもつ、というのは単なる想像です。


実体は想像をやめることにあります。
または想像まで含めて全部きちんと見ることです。


想像をやめたときに残るのが実体です。



悪意


悪意は限定的に存在します。
この地上の限られた心情ですが、分離を信じ、自分の本心・本性を忘れ、兄弟姉妹の本心・本性を忘れ、愛より悪が力を持つと「信じる」なら、悪意が発生します。


たとえばオレオレ詐欺はオレオレ詐欺です。悪い奴らです。
ただこの悪い奴らが何でできているかと言えば、愛でできています。事実は事実です。


舞台・環境も愛でできています。
悪と戦ってはならないわけではありません。


悪と戦うのも含めて愛より強いものがないんです。
愛の戦い方を誤解している人が多いのは善と愛を混同しているからです。


善悪で見るのをやめて、愛で見るなら、人の本性が見えやすくなります。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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