森の音 抵抗しない自然体


森にはいつも新しいいのちが生まれ、崩れていくいのちが生まれ、自然な変化のなかにあります。
音に満ちています。


ときどき、自分よりいい音が生まれている気がして耳を澄ましたり、羨ましく思ったり、いのちといのちの口喧嘩があったりもします。


この現代の地球をひとつの森とするなら、スピリチュアル分野の人が他の分野の人と大きく異なるかもしれない特徴はひとつだけです。


それは自分の自然な姿に「抵抗しない」こと。


努力しても抵抗しないし、努力しなくても抵抗しないです。
何してもしなくても、これがこうであること、あれがああであることに抵抗しません。


戦ってももちろんいいんです。
ただ戦う自分をゆるさずに戦う人はいないでしょう。
我慢しながら戦うのではなく、自然な発露の結果が戦いになりうるということです。


そして、抵抗しない自然体が浸透すればするほど
調和が生まれ、森の音はハーモニーを奏で、
不協和音は消えていくでしょう。


指揮者は愛です。人ではありません。


あるものが他のものより価値をもつという森はありません。
すべてを認められている創造の地平をどう活かすかはわたしたち次第と言えます。



最初から「私」の視点だったのか


私たちは「私」がいると普通は思っているし、そう感じています。
何もしないでただ目の前を見ているとき、この何もしない素の視点は「私の視点」だと思っていますし、そう名づけてもいます。


これが違うかもしれないと思いませんか。
本当にこの視点に「誰か」いるでしょうか。


そしてこの視点は「同一視」していますか?
していない、のではないでしょうか。


何とも、誰とも、同一視していないこの素の視点、よく考えたら「謎」です。
肉体が持つ五感を通した視点だと「想像」しているのが普通です。


ある段階で、「私」がいないことを明確に一瞥することが起こります。
疑いの余地なく100%「あ、こりゃいない、勘違いだった」と直接見えます。
そのときにはより大きな自己「本来の純粋意識」や「大いなる愛の光」の文脈まで遡っています。


そこから意識が日常レベルまで戻ってしまっても、その後は明確に理解していなければならないこと、思い出さなければならないことは、


「私があるっぽい」と感じているのは「すべて勘違い」だということです。
昨日私はハンバーグを食べました。という記憶があるなら、


「いま」「記憶(想念)を再生している」「ことが起こっている」


ということです。このどこにも「私」はいません。少しもいません。
記憶の中に、ハンバーグを食べている彼・彼女が映るかもしれませんが、あの人が私である証拠にはなっていません。
「あの人=私」という「想念は別に存在している」のであって、「いま」の中に、私=肉体、私=ハンバーグを食べた人という公式は存在していません。


「私」はいないんです。
「私はいるという解釈があった」ことが見えるようになったんです。



プラネテスのタナベ愛です。
タナベは普段から「愛」が大事と言い続けるキャラです。


ところが月面の事故で酸素切れ目前になり

気を失った仲間の酸素ボンベを奪わないと
「自分だけがあと数分で死亡する」という状況に追い込まれます。
酸素がない、息ができない、目の前には酸素ボンベがあります。


愛は常に一定です。増えたり減ったりしません。
恐怖は増えます。怖れが愛を見えなくさせます。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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