ノーマインドという場所
苦しんでいる人は、その苦しみに「思考している」状態が不可欠だということに気づいていません。自我が思考を用いてそこに気づかないようにぐるぐるさせています。
苦しんでいる人が何かのセミナーにやってきて、もう苦しみたくない!と言うなら一番簡単な方法は
思考をまったくしていない「スタート地点」に気づいてもらい、絶対にそこにとどまってもらうことです。
思考をやめる努力とかではないんです。
思考をまったくしていない「場所」があるんです。
その場所は思考はしていないですが五感は正常に機能していますので
ノーマインドと呼ばれています。
ノーマインドは場所です。状態ではありません。努力して維持するようなものではないです。
場所という言い方もどうかとは思いますが、直観的な伝わりやすさはまだマシです。
探求者に誤解させないよう注意すべきことは
これが「スタート地点」「素」だということです。
これを強調する人が少ないのはおそらく、これを言うと「有料セミナー」が成り立たないからです。
それだけではありません。
この「スタート地点」が何より「広い」ことも伝えたほうがいいです。
わたしたちが思考や感情をぐるぐるさせている「マインド(心)」は、この「スタート地点」の中の動きなんです。
つまり、マインドはノーマインドに包みこまれているんです。
ノーマインドは苦しみを止めることができます。
なぜなら苦しみは「思考している中」にしかないからです。
思考していないノーマインドには苦しみもないんです。
「私」がいないことが気づきにくい場合は、この想念がない場所「ノーマインド」に気づくことができます。
騙されたら(スペースが)空きまへんで
大いなる愛の光の波は実在しています。個々人の内側にです。
意識の「表層」を自我として信じている錯覚自体が誤った目標感覚(行為者の快・不快感)を生み出しています。
本当のリアルとは「感覚」でリアルだと知れるもののことなのです。
強調
なぜこの世があるのだろう。という疑問に対して一言で整理すれば「強調」だと思います。
わたしたちは「出来事」が先で「感情や罪悪感」が反応として発生すると思っていますが、
本当は生前から引き継いでいる
1、感情・罪悪感
2、出来事
という流れを引き起こしています。
この世というのは、
1番の感情や罪悪感をはっきりと目に見えて手で触れるようにするために用意された舞台ではないでしょうか。
そうしないと、(効率的に)これらを捨てることができないのでしょう。
わたしがこれを疑問に思うようになったのは
交通事故に遭う人物が、ここ数週間以内など直近に
「人間関係のトラブルがあった」人ばかりというデータを見てからでした。
交通事故に遭ってから
「人間関係にトラブルが生まれる」順序ではなくて、
事故前に心に「さざなみ」が立っている人物のみが交通事故を引き寄せているのではないかと思います。
最愛のものはいつも光です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody