透明な光(大いなる愛の光)をかぶせる
「透明かぶせ!」


レナード・ジェイコブソン氏が言っていたことでわたしの一番印象に残っているのが、


断片+断片


の論理です。
今この瞬間にあるものを「ひとつの断片」とするなら、もうひとつの断片が
「わたし」だと。


この断片が合わさったとき初めて本来の姿だと言うんですね。


わたしって何でしょうか。
平たく言うと
「純粋な目覚めた意識」
透明な光です。


透明な、光を想像してみてください。


まぶしい光の色とは違い、闇の色とは違い、
透明です。


それは、色というより、あらゆる色の「あるがまま」です。
色だけではありません。


ありとあらゆる性質の「あるがまま」、それが透明です。


わたしが透明な光であるならば、


断片は「透明」です。
わたしが「透明」です。


今この瞬間にあるものに「透明」を合わせてください。


そうすると何が起こるでしょうか。
ありとあらゆるものを何も変えません。何も変えませんが、
今この瞬間にあるすべてを、その「あるがまま」にさせています。


これが断片を合わせる前と違うことが体感できるなら、


「無想」の境地をこの「透明」に合わせていきます。
ありとあらゆるものをあるがままにさせる「透明」なわたしが


たった一つのこの瞬間をどう「見ている」でしょうか。
どう「感じている」でしょうか。
想念ももちろん「あるがまま」に見ます。
無想・無抵抗・無選択
この「透明」が浸透していきます。


透明の断片を合わせ続けることこそ霊性の修練です。



愛単色「茜色」


玉座であり最高位が虚空という話を書きました。
これは存在・意識・至福の境地、すべての同一視から自由になった完全なる覚醒、
完全覚醒です。
あらゆる表現の否定によってしか指せない唯一の実在「虚空」への帰還です。
一瞬たりとも絶対的幸福感以外感じない領域とされています。
なぜ「されている」と書くかというと、nobodyはこの実在は体験から知っています(おそらくニサルガダッタの真我実現時の体験とほぼ同一の種類の体験です)が、とどまれなかったからです。


ここに至る前段階の態度が、すべての神のなかの神、創造神「皇」を常に最優先する
「愛」の体現
「円舞」です。
フィオラはこれを愛単色、茜色となぜか呼んでいました。
無知と叡智、涙と愛、これらすべてが愛なのだと彼女も主張します。
特に自分をゆるし、愛すること、愛していることに気づくこと、それが円舞です。
自分という自己像がその段階でどんなものであったとしても、その自分をまるごと、いま、無条件にゆるしていること。
愛とはともにあることです。一番最初にともにあるのは、自分です。
自分に寄り添うことからすべては始まります。
もしも、この無条件に自分をゆるすことができているなら、すべてはしかるべく動いていきます。


とにかく円舞!
フィオラ流に言えばこれだけです。


円舞には、自分以外の兄弟姉妹の星を呼び起こすこと、星星の円舞(中心は愛の親玉「皇」)
流星円舞の歓喜があります。これがわたしとフィオラの目的地「炎」です。


炎は、あの世における「光の存在たち」の
「空気」と言ってもいいと思います。彼らより楽しんでいるものはいないです。



瞑想は名刀


「黄金時代へ」さんより引用させていただきます。


引用はじめ



TM瞑想の創始者のマハリシ・マヘッシュ・ヨーギーは、瞑想体験を「安らぎの機敏さ」と一言で呼んでいましたが、これは深いリラックスした状態にありながら覚醒した感覚、鋭さのある状態として表現していました。



引用おわり


安らぎの機敏さ!すごい!この表現知りませんでした。


以前「ネズミの穴の前で待つ猫の瞑想」「日本刀の矛盾の瞑想」を書きました。
日本刀の矛盾というのは、
・切れる(かたい)
・折れにくい(やわらかい)
この矛盾を極限まで突き詰めた姿が自然と究極の日本刀の姿に近づいていく話です。


リラックスしているんだけど集中している
「ネズミは待ってないんだけど、猫らしさを体験したいから待ち構えている」


別に対象(ネズミ)が来ることに固執はしてないものね
来てもいいし、別に来なくてもいいし。
でもわたしはわたしらしくある。


ということです。


瞑想と日本刀は同じなんです。



最初の写真の方、透明感すごかったですね。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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