影が影をみる悲しみ 光が光をみる喜び


光は全体です。一者です。
それは指定のない言葉のため超越です。
影は実体のないところに実体をみることに差します。


実体を見たと解釈する脳に「あなた」が同一視することによって悲しみの運命が廻ります。


社会的に「寄り添う」という言葉を考えてみてください。


人が人に理由なく「寄り添う」とき、何が生まれるでしょうか。
見返りを求めてではなく、同情でもなく、ただ「寄り添う」のは何による作用でしょうか。


それは本質でしょうか。欺瞞でしょうか。


影は光をみないのです。


光は影をみないのです。


天を信じてください。


あなたが今までに見たと主張する影はおそらく


人が造ったものばかり。違いますか?


人は経験に近すぎるから、この光を見ようと努力してしまうのです。


あなたの信念は、偶然吹き込まれた証言によるものではありません。
あなたの信念が先にあって、証言はあなたによって集められたのです。


いま影を、悲しみをみていると想像するのをやめてください。


それで十分です。



今この瞬間にとって正しいことができると認める。


これが、できると認めることから始まります。
何かが必要だ(または必要かもしれない)は後づけの反応です。
すべての思考を構成するのをやめるなら、できるとかできないとか考えていません。



最強のパワー論。あなたはあなたの完璧さを感じることにとどまるだけでいい。


不完全だ!不十分だ!不満足だ!
この不能!
不出来!
不細工!


なんだとゴラァアア!!


あれ?何書きたかったのかしら。



何も必要ない。何も覚えておく必要がない。


この「必要がある」という考え方が緊張を生みます。
実務的にそういう経験を通過しないという意味ではもちろんなくて、
瞬間は本質的に何も「所有していない」ということです。


一切の執着のないところに、自由があります。
または一切の執着に気づくところにあります。



何かをしなさい、どこかへ行きなさいというなら師に値しない。


師が沈黙そのものであるように、べらべらしゃべる人は源とは別のシステムです。
たとえばnobodyみたいなしゃべり続ける人ほど信用できない者はいません。


つねに頼りにできるのは沈黙、静寂、とどまる、在る、寄り添う、そういう既にあるもののことで、今から創り出すものではないんですね。


創造する行為は信頼できません。
創造、が信頼できるんです。
経験する者が信頼できず、
経験が信頼できるように。



怒りの送信とは


本人の意図と違って、知り合い全員に怒っている周波数をプレゼントすることになります。


怒りは発散するものです。
ただ発散する方向が誤っている可能性があることを内省すれば、
なぜ怒っているのか。なにが隠れているのか。なにを求めているのか。
大きく自己を知る手がかりになります。


言いたかったのは、部分的に正当な怒りと共存できるとは思わないということです。
すべてに怒るか、
すべてに怒らない(内面で愛の気づきに昇華する)か、
選択肢はどちらかです。


魅惑的!かつ文学的!

この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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