反応している事実自体が、反応する必要があると信じていることを示してくれている。


わたしたちは固定観念のパターンに対する反応を体験しています。
侮辱が届かないという話を書きましたが、たとえば侮辱に反応するのはそこに同一視があるからです。


同一視がなければ、主体も客体も映画のようなストーリーに過ぎず、感情移入した反応は出て来ません。それが出るのは同一視があるからです。


表面には現れなくとも、本人にとっては内面のさざなみは自分でよくわかります。


実際、わたしたちの毎日は、


同一視を浮き彫りにするという意味では非常に効率的で画期的なシステムだと思いませんか。


もし、今日何かに感情的に「反応」したならば、
それはすべて「同一視」ということです。


自動反応はいいんですが、記憶に印象を残すような反応は「同一視」があるからです。


同一視は魂の課題です。


同一視という原因によって「思考」と「感情」が発生します。


感情は、思考によって引き起こされていることがすぐに明確になります。ですが、思考はそうではありません。


思考は誰に起こったんでしょうか。それを一回一回探ることがなぜそれほど重要なのでしょうか。


思考は「誰に」起こったんでしょうか。
その「誰か」がいなければ、起こらないのでしょうか。
誰かとは肉体との同一視と、思考を発生させた主体との同一視によって描かれる行為者としての「私」でしょうか。


この極大の2つの同一視まで一回一回さかのぼって観照することによって、
透明な光のみが残ります。



存在の確実性(の自覚)にとどまる。


あなたはいま生きてますか?幽霊ではありませんか?
と質問されたらなんて答えます?


ほとんどみんな「生きてます」と答えると思います。
どのくらいの確信とともにそう答えるでしょう。
100%です。


だって、「在る」のは間違いないから。100%だから。


では、普段はその100%を意識しているでしょうか?
意識していません。


そして「存在の確実性」にはとどまらずに、
「自己像との同一視」にフォーカスしています。普通みんなそうなんです。


これが「愛」の感覚と直結していることに気づかれているでしょうか。


知識としては出回っているんですが、聞いてもすぐ忘れてしまいやすいんです。


愛は、この「存在の確実性(の自覚)」にあります。



すべての人に「最後の日」を分かち合うなら


とても苦手な人、仲良くできない人を思い浮かべてください。


この人が今日、人生最後の日だと想像します。
この人がいま、ありのままに「在る」ことに、それまでは気づかなかった(明日があると思っているときは気づかなかった)愛と感謝があることに気づきます。


自分が今日、人生最後の日だと想像しても一緒です。
旅立ってしまう自分にとって、残される者との最後の会話に愛以外を選択する者はいないです。


人は自分の愛の容量を見くびっているんです。
その限界を、見くびって生きているんです。


すべての人に「最後の日の愛」で接すること、挑戦する価値があります。



無思考と無葛藤のちがい


無思考は場所を示していて、
無葛藤は態度を示していると思うんです。


最初に大切なのは態度。
いまの自分をありのままに認める態度です。


思考が批判のかたちをとって自分を強く責めているかもしれない。
それをぴったりと、ありのままに聞くんです。


そして変えようとも、離れようともしないで、いまの自分をそのまま認める。
ここにこうしていることを認める。
無条件に、存在を感じる。


どうしようもない自分(どうしようもないの部分が思考)なら、
どうしようもない自分を「そうだね」と認める。
あるものをあるものとして「そうだね」と認める。


この態度が、実は万能で最強の推進力なのではないかと思うんです。



構造の日本語


日本語の構造という言葉は聞くことはあります。
でも逆はないです。


何が言いたいか自分でよくわからないんですが、
主体から客体への働きかけはあるけれど、
客体から主体へさかのぼる動きはほとんどないのではないかと思います。






あっという間です。
記憶として振り返れば何もかも夢だったかのように思えてくる現実です。
でも愛は、魂はここに残ります。
また明日です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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