いのちの一拍


なにもない。この言葉すらない。
ところが、あなたは結びつける。


記憶喪失の一瞬を考えてみてください。
見知らぬ人物が親しげに話しかけてきて
「まさか!?わたしのこと忘れたの!?」
と言ってきたら


あなたは記憶を照合するが、なにも思い浮かばない。
でも目の前の人物の顔は見ている。認識している。


さらに記憶喪失になってください。


あなたは飛行機にのって旅行していた。
突然飛行機は墜落。


気づくとあなたは竹やぶの中にいる(某海外ドラマの初回です)
そのときのあなたの心境。


あなたは人間であるという意識すらない。


状況なんかわからない。
でも、クリアである。


竹やぶの名前すら知らない。別に竹やぶを竹やぶと呼ぶ必要性もどこにもない。


このクリアな認識に
「名前」や「何やかや」を結びつけようとする。


結びつけるのは意図であって、その意図は脳から出ているかもしれない。


だが、この意図の前の、
記憶喪失の、
誰でもない、何でもない


クリアな認識は先にある。


日常は、クリアな認識に「結びつけた」あとの観察になっている。


結びつけなかったらどうなるでしょうか?


あなたはもしかすると、
人間役(肉体と判断力と頭脳など)と、クリアな認識がまったく違う存在であることに気づくかもしれない。


すごく不思議な認識の変遷がはじまります。


もしかして、目の前の展開(流れ)は映画のようなものにすぎず、
クリアな認識とは一切関係のない、質のちがうものだったのかもしれない。


この流れを「後悔する」って、すごく馬鹿馬鹿しかったのかもしれない。


このクリアな意識を感じていると、
あたたかい。


クリアな意識を見失うからどうすればいいかって?


一拍に気づけばいい。
結びつけようとする一拍の意図に気づく。
そしてその意図を手放す。成就する前に手放す。そうすると宙ぶらりんになる。
あなたにはなにもない。


とつぜん、あなたはすべてになる。



スの神の複眼


マインドは限られている、ように見える。
たとえば、AさんがBさんに意地悪して、生卵を投げつけてヒットしたとします。


Bさんは卵の衝撃を受けています。
衝撃のマインド。


Aさんは卵を命中させましたので、
命中のマインド。


ここに、AさんとBさんの厳密な分離・境界線があるというのが「理性の見方」です。
なぜなら、人間の個人的な体験というのは、それ以外ではないから。


ところが。
死後に人間が理解するのは、それが完全なまやかしであったこと。


Aさんは、Bさんのマインドを体験するんです。
Bさんは、Aさんのマインドを体験します。


そして、それによってAさんは衝撃を受ける。
Bさんも衝撃を受ける。


Aさんはその衝撃体験からまた反応する。
Bさんも同じ。


では、このとき、AさんとBさんの分離(個別性)・境界線は確かなものなのか?


いいえ。


神または創造主というのは、トンボの複眼のようにありとあらゆるマインドを同時に体験している可能性が圧倒的に高い。


人間が、そのスケールを理解できなかっただけ。


それが、皇。
そして皇が一つ一つの眼に与えたものが星。


これは皇の完全同時芝居なんです。


だから一つ一つの星・個人にとって、自分を大切にすることは、神の眼としての権利です。
でも異なる眼、兄弟姉妹(本当に別の視点からの皇にすぎないから)の星がない創造は全体像が完成しないことも認識できる。


本当は、一つ一つの星は、
すべての星を愛しているんです。


この本心に気づかない妨害要素をくっきり照らし出し、愛の光で見つめるために地上に生まれるんです。


それは一個の魂のためではありません。
全体の愛への賛歌なんです。
うおおお、全員修造!



あの世の計画の異常さ


理性の計画とか計算は机上の空論です。
あの世の計画はそういうものと一線を画しています。


全知の境地があると言いましたが、
すべてが同時に認識できてしまうあの世では、


瞬間瞬間に人が受ける印象やイメージの全体像まで


事前にわかるんです。
たとえばですよ、3日後にあなたが黒猫を見ることになっていたとして、
その黒猫からなぜかアンパンマンを想像することまで事前にわかっているんです。


だから、Aという人物の心理的なリアクションのすべてが事前にわかっている上で、
運命を書き換える(瞬間に見せる映像を変える)ようにしてメッセージを送るんです。


故人からのメッセージもそうなんです。
よく車のナンバープレートの偶然を引き合いに出しますけれど、
向こうでは心理的なリアクションが事前にわかっているからこそ、メッセージの受け手がこれから見るものを利用できます。


映像だけではなく、その心理的リアクションまで見えるあの世。


人生で起こる苦しみの体験は、そういう意味で事前に(生前にも)計画されています。
この時点でそれが起こるのが、魂の向き合う課題として最適と計算され尽くしているため目の前に現れています。


この天の計算を信頼するか、ありえないものとして退けるかは本人の自由意思に選択を委ねられています。


信頼する場合も盲目的な信頼では決してなく、
天文学的確率を証拠として提示するよう天に要請することができます。


他人の体験は信頼に値しません。直接的に経験するのが一番効率的で現実的です。



久しぶりにイエスマンが見たくなりました。
趣味嗜好は変わっていきますけど、愛とユーモアに溢れる作品はいつまでたっても魅力的です。
また明日です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody