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毒と青りんご(解毒剤)


ほどく。


僕は分離してしまった。ああ、なんてことだ。
分離したんだから、いずれ死が迎えに来る。
分離を信じ、分離を見て、分離を証明する。
それは分離の創造という「あり方」です。


これが全身にまわった毒だとするなら、青りんごが必要です。


青りんごは何だと思います?


「そんなものはない」です。


分離してないんだから。青りんごがあるという想像自体が毒です。
へんなの。



フィルムと現像


この世はフィルムなんですね。
あの世に帰ってからが現像なんです。


向こうでは嘘がつけません。たとえば胸に葛藤を抱くと周囲の全員にそれが「そのまま」伝わります。隠し事とかないです。


だから、恥ずかしい人生は、めちゃくちゃ恥ずかしいです。
なにが恥ずかしいのか。
利己性が恥ずかしくてたまらなくなるんです。


そしてその後ずっと隠せません。全身透明みたいなものですから。
愛にあふれた向こうの環境と仲間たちの前だからこそ、「ほんとう」のみ通じ、「ほんとう」だけが貢献になります。


自分にとって愛に満ちたことは
他人にとっても愛に満ちたこと。


自分の「ほんとう」を大事にしたほうがいいです。
それが結局、兄弟姉妹にもっとも誠実な態度だと言えるのではないでしょうか。たぶんですけど。



自由と自由


自由を与える=自由を受け取る
です。


ですので、周囲すべてを自由にさせる人は、
最大の自由を受け取っているんです。


それはどういうことでしょう。


彼・彼女は周囲を気にすることから「自由」になるんです。



不介入


手助けの手はいっぱい伸びてるんです。
ですが、本人が受け取るつもりにならないかぎり「見えない」んです。


そして、いくらでも(無限と言っていいような)協力体制があるにもかかわらず
本人の自由意思が


「介入を要請しないかぎり」


一切なんの協力もしないという手助けなんです。
これは知識としては知っておいたほうがいいと思います。


唖然とする盲点です。
思ったとおりに創造できるというのは、支援の程度まで自分で決めるということです。



個人は錯覚


個人は存在しなくて、「人との関係性」の中に個人が初めて存在します。
人の定義は、周囲との関係で定義されるということです。


「貢献」に焦点をあてている関係性こそ機能するのは古今東西不変の真理なのかもしれません。


いつも心の真ん中!

この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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