水のように


水のように動きなさいとか仙人みたいな人に言われたらどうしますか?
そもそも何が水のように動くの?


「何が」がないのが水のよう。


こだわりも、ひっかかりも、注意も、疑問も、何もない。


それは瞬間を切り取った静止状態ではありません。
あらゆるものは動きつづけていますし、変化しつづけています。


ただひとつだけ、すべてがありのままに動き変化しつづけるのを
とらえつづける不動がいませんか?


それが「いま」です。


疑問は生まれていいんです。疑問に対する疑問がまずいんです。


疑問は自然の一部です。そのまま認めればいい。


そうではなくて、自然な疑問が生まれていることに対して疑問をもったとき、あなたは流れから遊離します。
(これも便宜上の表現です。実際はなにをどうしようと流れから離れることはできません。すべてそのもの、それが流れです。思考はぐるぐる注意の焦点を答えのない質問行為に向け続けることができるため迷路にはまらないようにです)


何が、がない。
私、がない。
同一視、がない。
想念、がない。
努力、がない。


それはなんでしょう。
それはあなたです。
あなたが無のようです。
すべてに寄り添う愛のようです。


あなたがあなたの全体性を自覚しているとき、なにもかも水のように動いています。



思考を見ている立場と思考で考えている立場は違う。


わたしたちは最初から「見ている立場」です。
それを「考えている立場」だと混同しているから、混同に気づくことが起こるだけなんです。


「見ている立場」に努力してなろう!は間違った言い方です。


努力する前から、あなたは見ている立場です。いまも。
これが完全に「わかる」ためにはどうすればいいですか。


どんなときも「見ている」のか
どんなときも「考えている」のか


確認すればいいです。自明です。どんなときも「考えている」人なんかいません。


考えていないことすら「見ている」、これが続いています。


この「見ている」ことを自覚すると
(見ていること自体は見れないですが、自覚はできます)


胸に溶けるような感覚が広がります。
(ハートチャクラが成長期に閉じると、もう一度開くまでこの感覚がなかなか感じられない場合があるようです。nobodyがそうでした)


だんだんわかってくるのがですね、
人は死を恐れているんだということです。


普段忘れたフリをしていても、今日16時間は「死を恐れる感覚」をずっと感じていたのかもしれません。


死を恐れる感覚が「同一視が起こっていた事実」を明確に示しています。
死ぬほどちっぽけな何かが、「私」だと大元の想念が行為者のフリをしているんです。


私は肉体だ。私は年老いる。私は病気になりやすい。
私は叩かれたら痛い。私は。決して、安全ではありえない。


私は、不幸だ。


肉体との同一視が起こり、
思考との同一視が起こり、
死への恐怖がかたちを変え、人生に影をさしています。


これらの想念は誤解から起こっています。
肉体だと断定して生きているつもりになっている思考は、
肉体を「見ている」こと、
思考を「見ている」こと、


どんなときも継続して「見ていること」を無視しています。


でも順番は逆なんです。
「見ていること」の中で、思考は利己性を発揮して暴れているんです。



さだまさしさん大好きです。
また明日です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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