愛の形状を誤解したんだ人類は


愛が現れるとき笑顔のことが多いとか、そういう条件を記録するうちに、愛の在り処を見失いました。
条件は万巻に記録されているんですが、肝心の中身の在り処がわからない。


わたしたちにあるものと言えば、わたしたちにあるものだけです。
いまのわたしは、単にいまのわたしだし。


聞いてくださいよ。あいつが今日どんなに悪いことをしたか。
わたしはびっくりしましたね。


こんなに腐った世の中じゃ、聖人君子なんてどこにもいないです。


いつになったら、わたしは神に近づけるのでしょうか神様。


神様とやらは答えたことがないです。あるのは限界に満ちた人の有様だけ。


すべての想像を取り除いてみてください。時間をかけずに、今この瞬間に。
残るのは、「いま」です。
でもこの「いま」は速すぎて描写ができません。
どんな言葉も追いつきませんし、真似もできません。
でもあります。ここに確かに、変わらずに、あります。
すべての経験は、この「いま」に起こっているんです。


「いま」が実在か、「想像」が実在か、どちらかだけが残ります。
すべては「いま」に吸収され消えていきます。


愛はここに、ずっとありました。


「愛ではない」という想いが見えていたことに気づきます。



内側の映写機からの投影が外側


投影元は内側なんです。外側に見える世界は意識の中にあるんです。
どんなに素晴らしいものも、醜いものも内側にあるからこそ、外側に認識できます。


外から来るのではなくて、内から来るんです。


これを理解しないと混乱に陥ります。
外を変えようとする人は、内に愛を感じていないという洞察がありましたが、


「愛を感じていない」


という問題を浮き彫りにするために
さらに言えば


「愛を遮断している想いを浮き彫りにするために」


この世に生まれたんです。
それは魂の汚れではなくて、魂を「覆う汚れ」です。


この「問題が浮き彫り」になるシステム自体が愛です。


今日が与えられた機会です。







少女マンガの瞳のようにきらきら光る
すべては愛なのですから、わたしの目は輝いているのです。きらきら。
この世のどんな醜さもきらきら光るのです。
こういうイメージは誤解です。愛は強靭でしなやかです。
臨機応変です。



なんらかの思考が浮かんでくるとしますよね。それをこの瞬間そのものの全体性として受け取っていると、思考は通過するものであって「中身」も結局通過することがわかります。思考の相対的重要性は薄れます。5秒で通過するようなものは、その程度のものだということです。こだわって反芻するのは立ち位置が「私=肉体」という同一視にどっぷりと巻き込まれている場合です。「私=立派な肉体」だったり、「私=立派な思考」などという同一視なら「立派な」という部分にエゴがこだわっているわけです。エゴのそういう姿勢を続けたいなら自由ですが、もう離れたいなら「手放し」そのものであることです。
本来、元々、わたしたちこそ「手放し」そのものなんです。何にもこだわっていません。だって所有できないからです。選択すらできません。
この「手放し」そのものに戻ったとき(元からそうであったことを思い出したとき)解放があります。



若いお母さんが泣いている乳幼児をなだめようと焦る姿を想像してみます。
このとき、「泣かないで」と思っていると現状とのギャップに苦しみます。
また「泣かないで」と思っている自分の想いを変えようとしたり抑圧しようとしても、沸きあがっている想いとのギャップに苦しみます。
立ち位置がAとBの対比になってしまっているんです。目標を達成すれば幸せになれる!とエゴは言います。でもそんなことは起こりません。
AからBを見ること、BからAを見ることには「おかしな前提」があります。
誰が
「A=わたし・それ以外ではない」
「B=わたし・それ以外ではない」
と言ったんでしょうか?
前提に紛れ込んでしまった「同一視」が「葛藤」を生み出す犯人です。
もし同一視がなければ、葛藤は生まれず、「あるがまま」が残ります。
「あるがまま」が残る場合、どこにも「私」は残りません。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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