階層構造になっている
周波数が違って、「ここにある」のに「見えないし、聞こえない」ことは普通にあります。
ないのではなく、感知できないということです。
ここにラジオの電波は流れているけれど、機器がないと拾えないのは誰もが納得します。
「ラジオの電波」は既知で常識だからです。
単純に、こちらが違う周波数帯を拾えません。
わたしたちを「波」としてとらえる場合、
既に「周波数」があるわけです。
興味の有る無しから、信念の構造まですべてが周波数です。
意味はあるのではなく、いままさに「創造している」
誰かが決めたことはないんです。
今「決めつつある」んです。
誰が?誰もいません。
「決めつつある」があるだけなんです。
ここに「私」が決めつつあるという誤解が生まれると苦しみます。
そんなものはいない、からです。
分離感こそ、苦しみです。
創造から離れた「私」がいるという「想像」を(振り返るのを)やめれば単なる「創造」であったことに気づきます。
片手の拍手の音
わたしたちは変な思考パターンをもっているからおかしくなった
振り返るんですよね。「振り返る」んです。
わたしたちにとって最も無意味なのがこの「振り返る」行為です。
車で走っていて何か変なものを道路に見たような気がして、既に通り過ぎたがミラーで確認すべく「振り返る」。
すべては「ここにある」のであって、振り返った場所には何もないんです。
だからこれは「振り返る」のではないんです、
「新しく見る」です。
振り返るのはエネルギーの浪費です。
たとえ無限のエネルギーであっても、無駄な行動回数になります。
野球のバッテリーは、ピッチャーとキャッチャーのセットですが、ピッチャーがいないただのキャッチャーにとっては飛んでくるボールは「ただ飛んできます」
キャッチャーのいないピッチャーにとっては「投げたボールの行方はわかりません」
この創造という行為はだからシンプルなんです。
常に「一方通行」で、
出現したときには「もう完了している」んです。
なぜなら「もうある、を受け止めるだけ」だし、
「投げたら行方不明」だからです。
どんな役でもこなせる役者ですが、一回に一役だけです。
二人いない、というのはこういう事情です。
いま既にある100%から逃げない
「もうあるもの」は否定できません。これを
「否定できるつもり」になっているのが第一のミスです。
まだないものは否定できます。
もうある、なら不可能です。
「私」または「記憶を持ち込んだ自我」は
「否定できるつもり」か「逃げられるつもり」になっているから混乱するんです。
「もうある」今この瞬間に関してだけは
選択不可能です。
ではどうするか。
選択不可能なものは100%受け取るしかありません。
これが92%ならダメです。
99%でもダメです。
そういうことを考えているのは「自我」だからです。
実在しない、単に「そう見える」だけの錯覚だからです。
100%受け取る覚悟を定めないかぎり現実を誤解し続けます。
環境と熟成
これはセットです。望んだとおりに熟成させるためには計算され尽くした環境が用意されなければなりません。
人が計算を尽くしたものと、皇(全体)が計算を尽くしたものは違います。
目の前の展開は全体から見て「必要」だから起こっています。それを信じるかどうかは自由です。信じなくても「もう在る」ものは否定できない存在です。
全体の計算(統合された結果)を尽くしたものが「あるがまま」です。
この「あるがまま」だけには特別な効果があります。
抵抗が消滅することによってのみ味わえる「解放」があることです。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody