あなたを


おはようございます!わたしちょっと見逃してたブログがありまして、少し反応が遅れました。
今朝贈り物に気づきました。


鈴木○○さんのブログの「与えて受けとるワーク」これはすばらしいです!
(引用できないのでぜひ読んでみてください)


イメージワークは、重要です。
特にこれは、人生での累計回数を考えてみれば巨大な影響力を持つと思います。


これが習慣づいている人といない人では、人生に内的な格差がつくと感じました。


ぜひお勧めさせてください。



空一(くういつ)皇一(こういつ)


虚空との一体化(もともとわたしたちの究極の実体が虚空ですが)を空一、
皇(愛の絶対神)との一体化を皇一と呼ぶとするなら、


これは同時でともに歩むプロセスなんです。


おもしろい文章を読んだんですけどね、アドヴァイタを学ぶ若い方が
「人格神なんてダサイぜ。クールなのは非人格だぜ」
と感じていた、または周囲でそう感じている空気があったんだそうです。


これですね、誤解です。
わたしたちが生きている間に人格神と二人三脚ぐらい協力体制をとったほうがいいです。


一般的な守護霊が一人につき三人ぐらいいるなら、その三人はもちろん、背後の霊団・類魂(グループソウル)のマスタースピリット達や、全存在に味方する(霊体を脱した)光の存在たち。


こういう人格神または高級霊のような意識存在と全力で組むべきです。


それだけではありません。


この世で出会う勘の鋭い人たち、そういう人「全員」を自分のアンテナとして活用すべきです。


誰が使っちゃいけないって言いました?利用じゃないですよ。活用です。


使えるものは使う!それでいいんです。成長のために活用されることは兄弟姉妹の喜びです。


皇一は皇(最高神)との一体化ですから、常に愛を最優先すること自体が皇とともに歩むことです。でもね、愛を最優先するということは、


皇が生み出したすべての兄弟姉妹と協力体制で歩むということです。


万物皆師匠です。愛の別名です。


空一だけが悟り・覚醒の道ではありません。


これは放棄の道(ニヴリッティ)と行動の道(プラヴリッティ)が本質的には同じ場所に到達するのに、どちらも互いを排斥せず区別しないことと同じです。



中心のない中心


超越とは、いかなる限定もないことです。
限定はすべて超越されてしまいます。


中心とは、限定ではありません。


中心のない中心が、超越であり、遍在なんですね。


それは愛だね!至福だね!という人がいますが、愛とは何か、至福とは何かを限定しても捉えることはできません。


いかなる分離も区別もないときに、わたしたちが感じるもの、それは
言葉は無意味ですね。



これ・こことの付き合い方を変えるしかないと100%腑におちた人が変わる


これに気づくまでが大変なんです。
一般的な時間感覚では、「これ・ここ・この瞬間しかない」んだと言われても、だからどうしたの?となってしまいます。


本当の意味で100%腑におちた瞬間からその人は変わります。


愛は待っていても来ないんです。
いま、愛を感じないと、愛が感じられないんです。


ふざけているわけではないです。


「いま」愛を感じないなら、誰が!いつ!愛を感じるんですか?


条件とはなんも関係ないじゃん!!!!ちょっとうそでしょ!!!????


これが悟りの大事な側面なんだと思うんですね。


言い訳・泣き言、無駄なんです。


救世主は、いまハラを決めることです。うん。



1クッションを想像することに正当性はないのだ。


他になにかあるはずだ!あるにちがいない!
いまこの瞬間しかないから「次の瞬間はやってこない」、世界は在るだけだ。


ということがわかっていない人は「他があるはずだ」という想像を投影し続けます。
それが1クッションを想像するんです。


目の前がありますよね。目の前を「見る者」がいると想像しているでしょう?
これがただの想像・余計な1クッションの想像行為です。


誰もそんなことを想像してくださいとお願いしていないのに、
「当然見る者がいる」と想像する癖がついています。


違う言い方をするなら、
あなたは「ここ以外を体験できるのですか?」ということです。


ここしか体験できません。体験はこれだけです。


「これ」と「あなた」は別物ですか?


この質問から、自我が揺らぎはじめます。


あれ、「わたし」はどこにいるの?






今夜はギターが聴きたいと無性に思いました。よい週末を。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody