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無知に仕える


「無知に仕える」ことは自己(魂)のためにはなっていません。分離した自我がいるという無知を調査しないからエゴイズムが残ります。


無知(未調査の自我に仕える)または(未調査の自我)を抱えたまま行為すると、未調査部分が「調査せよ」と光を反射してきます。


未調査の動機は怖れです。暗闇を怖がるのと同じように、愛のなさそうな感じが嫌なんです。
受容(観念する=想念を観る)から逃げ回ると怖れはどこにでもついてまわります。
一生ついてきます。


調査せよ、の反射にマトモに向き合うまで、魂の呼びかけは止まりません。
呼んでいるのは紛れもなく自分だからです。



神がすごいことを忘れそうになったら


人間が地球の表面でやっていることに対して、宇宙が規模において質においてどれほど違うか、そのつながりにおいて自分が生かされていることをいま感じることかもしれません。つながってますよね?


独立して(放置されて)人間が動いているというのは思い込みです。


湧き上がる想い自体も宇宙の動きです。
あなたが宇宙の代表です。


失われたのではなく、かたちを変えました。



自力とはあり方の中心に自覚的であること


不安とはいまもしかして不完全じゃないの?という疑念をリアルタイムで発生させていることに無自覚でいることによって、他人事のようにそれを感じることです。


自覚的であるとは、すべてを影響できる因子に変えてしまう態度です。



主語と目的語をとると大切なものを示すことができる


好きです。
指定がないと、最も大きなものを指定したことになるんですね。



ニギミタマ


にぎやかな神々に合致する御魂のことかもしれません。



書きたいことの内容をきれいさっぱり忘れてしまいました。
一部だけ思い出しました。


目を背ける動機、見たくないことと、しっかり見終わってもう見る必要性を感じないことはまったく違います。


見終わるというのは最終的には行為ではありません。あらゆる行為は虚空のもとで既に完了しているからです。


目を背ける動機そのものをリアルタイムで見ている、気づいているならば、全体性の自覚は失われていません。


エックハルト・トールではありませんが、超越したいならば、超越されるものは知られなければなりません。



それは誰の心理内で起こっていることか明確に自覚する


投影が起こるのは、責任は分散していると想像しているからです。
マインドのなかのことは、そのマインドの持ち主の責任です。


一体誰が、個人の内的世界の責任をとるのでしょうか。


この誰が?は「知られて」いません。常識云々では届きません。


誰のマインドか自覚しないと投影は続きます。


「私」のマインドと思うと「私」とは何なのかを推測したまま「私」の所有地に迷い込みます。


想像ではなく、気づきで知るしかありません。


「ここ」と「私」という関係性で言うなら、


1、「ここ」だけが存在する。
2、「ここ」と「私」が別々に存在する。
3、「私」だけが存在する。


2番はありません。すべてはひとつです。
3番も「私」が「世界」の中で行為者として活動していると感じている時点で違います。


1番が正解ですが、ではなぜ「私」があると感じているのだろう?


という問いが正解です。
この答えは理屈ではありません。


なぜ、いまこの瞬間、「私」があると感じているのだろう?


真剣に問えば、いろいろおもしろい答えに当たるはずです。


「ここ」にいないから。


がその一つだと思います。


「ここが在る」と「私が分離している」は二律背反です。


私の分離感は、「ここからの分離感」です。






カルキさんがレベル1の教えをまとめているのを見て思ったんですが、
どれだけ深く広く理解しているか、叡智が浸透しているかは、高レベルの教えではなくて、
レベル1の教えに何を持ってくるかこそ、その人の叡智のすべてを示していると感じます。


複雑な話になるのは、話し手の理解が浅いからなんでしょう。
そして、愛のない感じになるのは、話し手が愛を感じていないからだと思います。
シンプルなんですよね。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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