神のミステリー「まぶたを上げる必要性がない」


いまここにある受容に気づくのは方向の転換です。
気づかれる側「対象」としての自己像から、気づく側「空間」への認識の転換です。


見えているもの、感じられるものは何も変わらないのにすべてが変わってしまいます。
限られた自己「私」はどこにもいなくなり、ただすべて(私も含む)の「受容」だけが在ります。


「私」がただの(気づきの)対象として「受容されている」ことを忘れる焦点が「私」です。


なぜ忘れるのかは、像を彫る、瞬間から像を抽出するからと言えるかもしれません。


全体から木彫りの像を掘り出せば、焦点が像のみに集中すると背景は無意識にピンぼけします。


この自己像と全体のどちらに焦点があっているか(全体=自己像に焦点が合っていないこと)の違いがすべてだと思います。


全体とは受容です。もともと在る受容です。


ここに戻るためには、私たちが「私」という行為者の像を彫る焦点で普段生活しているため、焦点を「私」から反らさなければなりません。


見ないようにするということではなく、「私」という像を掘り出す(描きつづける)レーザーのような焦点を手放すことです。


それが


まぶたを上げる必要性がないぐらいの


いまこのありのままを受容する感覚「焦点を手放す感覚」です。






この絵の猫側なのか、絵側なのかでだいぶ見え方が違います。
どんな場面を描いても、絵は「そういう」絵として完全ですよね。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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