ただそのままであなたはプレゼント(贈りもの)で在る不思議


よく出来ているんです。あなたが贈りものであり、現在であり、贈りものを与えていることであり、贈りものを受けとっていることです。


あなたは自由であり、あなたは愛です。


あなたは祝福であり、あなたは光です。


何かになろうとするのは自由であり、必要ではありません。


人ではなく、あなたがプレゼント(贈りもの)です。



比較をもちださない「在る感」-逆の態度はペインフル


先日の月食時もくっきり映る満月は徐々に浸食されこの星の影に入りました。
そうすると月は薄くなり肉眼では見えにくくなります。


もしくっきりしていた一瞬前の月と比較をするなら、その落差によって姿を「見失った」と感じます。もう「月はない」と感じます。


この比較をするという態度は生き方としては「想定外」の態度です。
比較というのは理性の機能であって、今この瞬間という贈り物を紐解く態度ではありません。
一時的な道具であって、デフォルト設定されては不都合しか起こりません。


一瞬前を掴んでおこうとする態度と言ってもいいです。
持っておきたい。
保存しておきたい。
モノは保管できます。


瞬間は、保管できないんです。


よくよく考えれば明らかです。
今この瞬間を味わうためには、


一瞬前の瞬間を掴んでおこうとする態度は完膚なきまでに手放されなければなりません。


あなたは掴めるキャラではなかったんです。
本来の手放しだけの態度を最も心地よいと感じる正体不明、未確認の飛行物体
「UFO」とはあなたのことだったのです。



ここ以外の他の場所があると想像していることが問題の急所


フィオラの語る霊性の土台は、「他抜き」です。
ここ以外があると想像していることに気づいてください。


その想像の上に地図を描いていますね?


問題があるという想像自体が、ここ以外の他の場所を想像する行為です。
「ここ」があるのであって「問題」があるのではありません。


唯一存在するのは「ここ」であって、他には何もないのです。問題という名前のなにかはありません。「ここ」があるのみです。



こことの関係性が人生のすべてだって理解したとき


人生は、いまこの時点で、
「ここ」と「私」の関係性しかありません。


部屋とYシャツと私みたいな関係性はありません。
「ここ」と「私」のみです。


それが完全に納得できるのは時間軸の概念で見なくなったときです。


そして「私」というのは



我とは全体性の一部分を切り取り抽出して本来存在しないものを概念化した架空の主体です。


我は「理解」のためにはとても有効な概念です。
我の概念がなかったらこの世界のルールをうまく理解できません。


「私」が行為者としてやってはいけないことを社会ルール化しています。
それ自体は何も間違っていません。


ですが「私」がいるということは「分離」があるという信念・世界観であり、
これが苦しみの源であることは大きな意味を持っています。


「私」という概念を維持すると「苦しい」のです。


なぜかと言えば、「私」という概念は「真実ではない」からです。


真実は「ここ」しかありません。


私と名づけ抽出した概念は実際には存在せず、誤っています。


概念が誤っているのではなく、概念を通してモノを見ることが誤っています。


実際の現場では、「ここ」があるだけです。
私も他人も、ありません。正義も悪もありません。「ここ」があるだけです。


感情的などん底も、人生の至福のときもありません。「ここ」があります。



天地をつなぐ支柱


拡張と収縮のエネルギーの二方向の関係性の中に、私たちエゴは中間があると無意識に想像しています。


自己(私)に貯蔵できるという概念です。


中間はありません。そして、自己もなく、貯蔵もできません。
貯蔵しようとしたときに何が起こるかというと、収縮方向に動いたエネルギーが内部で爆発します。これが疲労の原因ではないかと思っています。


超シンプルに言い換えると
私たちは「敵対ができない」んです。


え?できないの?


できないんですね。


愛の海の中で、「愛がほしかった!愛はどこだ!?」と叫んでいることに正当性があるのか、救いはあるのかという話なんです。


正当性はないですね。そして、救いはそこら中にあるわけです。
愛の中で泳いでいるのですから。






大きなプレゼントを最近たくさん貰っている気がしてます。
明日また書きます。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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