1、愛を最優先(優先ではなく)します。この場合の愛とは「わたしはあなたとともにある」というあり方。いついかなるときも自分を無条件にゆるし寄り添うあり方(このあり方を採る者は兄弟姉妹を無意識に傷つける言動は自動的に選択できなくなる)。
2、神の存在を信じています。または論理的に検証して存在の可能性に同意しています。
(神=愛だと気づいている者には2番は同義語反復なので不要)
フィオラは、この2点を基本的な前提として要求します。
(この愛最優先のあり方を円舞と呼んでいます)
引き寄せの法則の地図の向きに反対しますとわたしが書いたのは、引き寄せの法則より優先しなければ後で(死後)後悔することがあるからです。
鈍い人は、愛に違反するんです。鈍いから。
敏感な人は、愛に違反しません。何かが骨身に染みているんです。たぶん痛い目にあった経験があって魂からその教訓が顕在意識にまでにじみ出てるんです。
「未知に対して既知」で戦いを挑むのは最悪の選択です。
前に書きましたが、未知は一番危険なんです。最強の敵は常に未知なんです。
この時代が変わりつつあるのは
未知は味方にもできる
という叡智が浸透し始めたことです。
「未知に対して未知」で挑むことは可能だと認識する者が増えているんです。
既知は役に立ちます。
ですが既知だけで勝てるのは、敵が既知の場合のみです。
己の中の「未知」に頼ることは可能なんです。
自己の中で「既知と未知」の共同戦線を張ります。
そうしてこそこれから訪れる非常事態に対応できる可能性があります。
それも「ネットワーク」でです。最低でも単位はあくまでネットワークです。
一緒に働く、協働です。
目覚めが連鎖しているのは、その必要があるからでしょう。
ネットワークは、「貢献」に焦点をあてて
星(魂)を愛(全体)に捧げることでのみ機能すると思います。
わたしたちは平屋に住んでいる。
何かを求めている心境の奥深くまで降りて動機を確かめると、
いま愛を、平安を、完全性を感じたいという魂の慟哭(正確には魂から切り離されたと感じている魂の一部の慟哭)であることがわかります。
ですので、これに反対する「分離したという嘘の世界観」を握り締めているほど
胸は締め付けられるように苦しく感じます。
私は、分離してしまった。
私は、いま完全ではない。
私は、何かを変えなければならない。
私は、それを一人でやらなければならない。
私は、世界が残酷であると知っている。
私は、ヒトが残酷であると知っている。
私は、世界が許せない。
私は、被害者だ。
私は、唯一の被害者だ。
私は、私が憎い。
などなどリストは延々と続きます。
要点は、「愛」があると信じられないので、「怖れ」ているということです。
怖れていて、いい気分になるはずもありません。
愛と分離は反対です。愛は分離がない感覚です。
二極性の反対ではありません。二極性を超越したところにあるのが愛です。
では、いつ怖れているのか。
いまです。いましか怖れることが可能な瞬間はありません。
いま、怖れを感じているか、愛を感じているかははっきりとした二択です。
怖れに無自覚になっていると、愛を感じていない異常性がわかりません。
怖れの期間が人生で長すぎたために、デフォルトの愛の感覚自体がわからなくなっています。
行為者として「(分離した)私がいる・その私はいずれ死亡して無になる」という世界観・信念ほど怖ろしいホラー映画は存在しません。貞子もびっくりの怖さなんです。
私たちは普段から怖れの中にあります。
分離は嘘です。嘘の世界観ですが、これが地上では「常識」です。
悟り・覚醒というのは、この嘘(分離)が嘘だと思い出すことです。
分離=怖れ
これを外科手術(分離切除手術)で何とかしようとせずに、
愛で見て、愛で統合すること。もともと統合されていることを思い出すこと。
分離という錯覚が愛の光に溶けて消えること。
一日を振り返るとき、
「愛に安らいだ度」を計っていくといいと思います。
逆に安らいでないときはそのまま
「反応が表層でした度」です。
この平屋はシンプルです。特に複雑な構造は隠れていません。
波としての振動域が異なっていて、それはすべて愛による。
同一の場所に異なる振動域が重なって存在している(この世とあの世)。
愛に安らいでいれば、安らぐ。
雑
磯野くぅーん!
また明日です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。