アンブロシア(神の食物)


胸の奥に感じられるこれの本質をわたしは誤解していたかもしれないと思うようになりました。
フィオラは「わたしはあなたとともにある」と言うんです。


たとえば目の前にいまある風景というのは、自分と分離しているような気がしますよね。
この目の前は「愛」なんです。


理性でそう名づけていないこともわかっていますが、この目の前が純度100%の愛なんですね。


そうは思えない!!と叫ぶ人が多いのももちろんわかっていますが、事実というのは、人の意見では変わりません。


目の前が愛なように、心の中も愛なんです。


イスラム国をめぐるニュースの中で、人質を処刑する様子をインターネットに流す者がいます。
言えることは、わたしたちがこの犯人を憎んでも事態は好転しないことです。


なぜ「同胞の痛みを敵の一族を処刑することで同じ痛みを味わわせてやる」と考えるのか。
根底にあるのは分離思想です。
「私」がいるから「ヤツラ」も実在するという考え方です。
「記憶」があるから「過去」も「罪」も実在するという考え方です。


突き詰めると「私が(分離して)いる」です。


神がやったことではありません。
神から与えられた自由意思を悪用した結果、どれほど残虐なことが可能かをヒトが示しているんです。


では、何が悪なのか。
「わたしはあなたとともにある」を選択しないことが悪だと思います。


このすべてを収束させるには、
私が本当に分離しているのか。


わたしは外側とも内側ともともにあることができないのか、真摯に向かい合うことではないでしょうか。



真円の完成


丸い池があって、その中央に人型の彫像が浮かんでるとします。
この「私」が沈んでいき、真円になること。


彫像は「肉体」であり、「思考」であり「感情」です。
顕現であり、見られるものです。


丸い池の水は「意識」です。
非顕現です。覚醒です。気づきと呼ぶ方のほうが多いのかもしれません。


この非顕現を超越したところに虚空(便宜上そう呼ぶと)があります。
真円の池ですらありません。気づきでもなんでもありません。
究極的には、なんの描写もできない、否定でしか指せないこの虚空がわたしたちです。
これが不生不滅です。魂がバラバラになってもわたしたちはこれがあるゆえに死にません。



水平比較から満足は生まれない。


水平に動くエネルギーはエゴです。これが「比較」を行っていますが、ここから満足は生まれません。それを人は感覚から忘れてしまっています。


人が満足するエネルギーは垂直に湧き上がる「ハラ」からの感覚です。
独自の魂からの個性であり、他者に依存せず、環境に左右されません。


たとえば承認欲求など、何かが「付着」している願望なら垂直のものではありません。
垂直は無条件で、無償です。



金魚鉢。無限。


狭く限界のある金魚鉢を牢獄のように感じる視点は「私とは誰なのか?」の答えも有限です。
この答えが無限となったとき、金魚鉢も無限となります。


もともと無限だったのですが、金魚が無限に気づいていなかったんですね。


金魚鉢が無限の視点ってどんなものでしょうか?
これは画像の拡大によって金魚鉢の「壁」が意味をもたない画素になるのに似ています。


気づきに、壁なんかあったっけ?という視点です。
壁は単なる概念なんですね。






橘いずみ サルの歌(youtube)
つらかったことが多かった時期に、この歌に救われた記憶があります。


思いつきなんですけどね、4文字(4音節)であり方を表現するのは伝達しやすいかもしれないですね。


ただある。
にげない。
キリスト。
スライム。


とか。スライムは相当お気に入りです。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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