オキーフ博士の発見は動物の空間把握を解明する端緒になったが,どうして場所細胞が特定の場所で発火するのか,その元になる仕組みはわかっていなかった。これを明らかにしたのが,モーザー博士夫妻だ。


モーザー博士夫妻は,海馬に情報を送る「嗅内皮質」と呼ばれる部位に着目。2005年に,ラットがどこか特定の1カ所ではなく,3角形の頂点を結ぶ格子点のどこかに来た時に発火する細胞を見いだした。これを「グリッド細胞」と呼ぶ。

ラットが歩いて格子点に達すると,グリッド細胞が発火する。嗅内皮質には異なる格子周期に反応する異なるグリッド細胞が存在し,例えて言えば,それぞれ30cmごと,50cmごと,70cmごとに発火する。それらのグリッド細胞の信号を重ね合わせ,さらに視覚や運動から得られる情報を統合して,現在地を特定する。この情報が海馬に送られて,場所細胞の発火につながるとみられている。こうした空間把握の仕組みは,人間でも同じように働いているとの見方が強い。


nobodyです。ノーベル賞をとった空間認識の話です。
平屋のたとえで書きたかったことでもあるんですが、あの世では移動がワープみたいな感じなんですよね。空間がないんです。
虚空はもちろん非-空間でもありますし、私たちが日頃空間だと感じている世界というのは平面のデータを立体に投影しているようなホログラフィックなもので、あくまで脳内でのみ起こっている仮想空間なのかも知れないです。


「私は肉体である」「その肉体が行為者として世界という空間の中を移動している」という想念にリアリティが感じられるのは空間認識が大きいですから、脳内で何が起こっているのかは非常に興味深いです。



受容力(射抜いてください。あなたの腕を信頼します。ああ神様どうかお助けを)


たとえばですよ、カッコウが意識の力で他の鳥の卵とそっくりの卵を産み分けるように、人間にも意識の力で思ったとおりの現実を創造する力、引っぱる力、引き寄せる力があります。


これを創造力と呼ぶことにしますね。


でも意識=創造力だけではないんです。別の側面があります。


それが受容力です。


意識=創造力=受容力


であり、スピリチュアルの教えで最初に重要なもの、悟り・覚醒に至る段階までは最優先されるもの、それが受容力です。


なぜなら、自我が、行為者としての自分が分離しているという分離感を握りしめてしまっていて、その上に創造力を行使しても分離の苦しみや悲しみは癒えないからです。


1、受容力
2、創造力


であって、この順番を逆にしてしまうと、創造力を「分離の苦しみを受容しない(逃げる)ために」振り回すようになってしまう可能性があるんです。 まずは分離の勘違いを癒すことが大事になってきます。


りんごを頭に乗せて、どうぞ私を射てくださいと言うのは勇気がいります。


でも矢を避けようと頑張ってきた今まででも、大怪我ばかりだった気もしますし。


この危険さは、いまここにあるもの、いま既にあるものに止まること。
(止まる行為ではありません。既に止まっているわたしに気づくこと。既に静寂であるわたしに気づくことです)
愛が「もしかしたらないかもしれない絶望の可能性」に向き合うこと。
あらゆる希望を捨て去り、未来の探求をやめること。


ただ、受容します。



遮断。遮って断つ!だれが?


いまここにあるものに気づいているのがデフォルトであり、あるがままの機能です。
いまここにあるものに気づいていないように出来ます?


出来るんですよね、これが。


どうやって?


遮断するんです。底流の気づきは遮断できないけれど、覆い隠せるんです。


この覆い隠す自我(記憶引用)の働きを「独立したもの」と見なすこと。


独立感を感じながら行為者として大活躍するんです。これが人生ゲームです。
独立感は孤立感になるので、寂しいから他人に愛を求めます。
いろんなドラマが生まれます。人生ゲームです。


この一連の「遮断」をやめれば、残るものはアレしかありません。


名づけようのない、あるがまま(の機能)です。


このあるがままは、遮断癖(しゃだんぐせ)と言える自我の働き、エゴの戦略よりもスムースです。葛藤がありません。


魂の光を遮り、全体とのつながりを断つ!


のは自分だけです。外部の影響でそうなることはありません。
全部自分が遮断したんです。これを他人と環境のせいにすることは不当です。


分離・独立・孤立した「私」がいると想像したことによって、起こるんですね。


自我の「私」が幻想で、錯覚で、犯人なんです。
この犯人を冷たく足蹴にしては状況は悪化します。


寄り添い、言い分を聞き、ゆるします。もうゆるしていたことに気づけるはずです。



小さな人の演技をやめてよ


最初から修行するまでもなく、真我なんですよね。
じゃあわたしたちは何をやってるんだと言うと、「小さな人のフリをしている」んです。


その小人の演技は、わざとなのか、どつぼなのか、迷うんですが、
演技は演技です。わたしたちはたったいま、いい役者なんです。


没頭しすぎて演技だと忘れてしまった迫真の演技、か、
演じていることを「中心から見ている」のか、
こういう違いがあるんですね。


わたしは真実にステップアップしたい!というのは考え違いです。
あなたが真実なんです。


ステップアップしたい!と叫んだのが「演技」であると見抜いているのかいないのか、なんです。見抜いていないということは中心を忘れていますし、デフォルト視点と自己像は違うことを思い出していませんし、「演技中・または役になりきったまま楽屋で休憩中」ということです。


小さな人の演技をやめてよ


それだけです。いい役者に限って「いいえ?私は演技なんてしてませんよ。○○は私の本名です!」と言い張ります。


だからこれは自由です。


スピリチュアルな教えがブームだ。私は演技をしているのだろうか?よし、演技をしているのか見抜こう!


これが相当滑稽な図なのもわかってきます。
あなたが、真我なんです。たったいまですよ。あなたは改善の余地がないんです。


あなたがいかなる定義でもないこと。
なぜなら定義に気づく側だから。


これが腑に落ちたら、その後はあらゆる同一視を少しずつ放棄していくことになります。
でもそれは行為ではなくて、その後は単に「起こること」ですよね。


小人の演技が、ただの演技であることは「気づけてしまう」からです。






古いものから焦点を逸らすこと、そっと視線を外し、フィーリング(感覚)を定着させる
そして全体の変容ビジョン(既にあるもの)を引っぱりだす。
これからの時代の肝だと思ったため今日はこの動画にしました。


最高のグルは内側にいます。
内なる光に問いかけるのが一番適切だと感じています。これだけで未知と既知の協力体制をとっていることになります。また明日です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。

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Fiora & nobody