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反応型


理屈だけでもいい。やすらかであることを理解してみます。
やすらかとは「いまもうあるものに抵抗しないこと」です。


だって、もうあるんだもの。そこに心理的に抵抗しても無意味です。
ところがこの無意味なことをやるんですね。


それをたとえば「反応型」と呼ぶなら、いまもうあるものを
「類型」に分類して「嫌悪する私」がいることに気づきます。


その類型は見たくない、のでデフォルトの受容を無視して
拒否反応を前面に出します。


受容された拒否の行為なら問題ありません。
受容に気づいていない拒否だと問題があります。悪循環の始まりです。


この瞬間の受容に「座っているかどうか」で平安は決まります。


どれが一番上等のお肉なの?
うちの肉はどれも一番ですぜ旦那。


瞬間はどれも一番ですぜ旦那。


あなたはいま受容に座っていますか。それとも何かを求めている?


今日仕事中に動揺することは絶対にありません。
動揺に気づくことが起こり、あなたがそれを「自分そのもの」だと同一視するかどうかが起こっています。善悪はありません。


同一視するかどうかが起こっています。


あなたは動揺はしていません。



からっぽであるがゆえに有能


カルキさんの言葉なんですが、今日一番ピンときた言葉でした。


からっぽって何ももってないんです。ですから一番掴む力が強いんです。
瞬間に掴む握力が強い。


そして、手がサラサラしているがゆえに掴んだものは大河のように流れていきます。


出来事に投影していないため、出来事は上映されてただ消えていきます。


そこに「私」はいないから、本来ある大河の上映は邪魔されていないんですね。



一言メモみたいに書きます。


肉体の機能なのか肉体以上の本体「空」の機能なのかでまったく違う。肉体の機能は空に映し出された肉体の機能のため本質的に肉体の機能が単独で存在するわけではない。


小さな私は存在しますが、推測しているような単独で独立して存在しているものではありません。


どこへ行こうと本体の空が力づけています。


いま投影された映像が持つ機能は否定されません。それは存在しますが、映像として存在している限界は越えません。


「在る」は動機をもたないからこそ世界を救えます。


悪循環の外にあるものが断ち切ります。


思考されない。逆に思考が気づかれている。この構造を見失うか、いま見失っていないか、どちらかです。


抽出された体験ではなく、体験とは流れ、永久の流れを指したもの。


ともにある、それが真我






今日はカルキさんの動画にしますが、この動画できれば8分00秒の時点で再生を終了していただければと思います。


8分00秒からディクシャ(手をかざす)みたいなことをするんですが、わけのわからない人からのディクシャは受けたくないという方もいらっしゃるのかもしれませんので念のため書いておきますね。


今日もよき日でありますように。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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