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「思考観察」まとめ 第2回


こんばんは。今日は皆さんにとって一番興味のあるテーマの一つだと思います。
「どうやったら可能な限り早く静寂視点を定着できるのか」に絞って書きます。



以前に書きましたがおそらく最速の方は3日です。
その後2ヶ月間無思考だったそうです。ただその方は細かく記録をとったり公開されている方ではないため、予想できる限りの最短の道のりを考察します。私が体験からどこまで定着期間を短縮できるか考えた場合は重要な反復訓練に最初から絞ればもしかしたら3週間でいけるかも知れません。


この定着達成までの期間に関してはやまがみさんと今の私はだいぶ意見が異なります。定着する方が増えるにつれてこの「思考観察」の道全体のエネルギーが共鳴し、今歩む方をより早く押し上げていく気がするのです。100匹目の猿の現象です。

育児にそんなにストレスを抱えていない主婦の方はスムースに定着できるかも知れません。未成年や学生さんの場合も同じです。この考察に意味があるのかというと、あると思います。今後加速度的に定着まで行き着く方が増えるためには何より定着まで1ヶ月を切る生きた前例が増えればいいんです。1ヶ月ならやる気にも我慢する気にもなると思うのです。可能かどうかは私は前例を1人しか聞いたことがないのでわからないのですが、やればできるような気がするんですよね…。





今から書く方法は私に考えられる範囲での最短の方法であって最良の方法だとは思ってないです。最良の方法はあなたの興味が自然に寄り道をさせるあなたらしいやり方がベストだと思います。チャクラの状況や人生の台本が個々人で異なり、あなたの台本を書く計画者は人間の理性では及ばないくらい完璧で、あなたに「今なんとなくこの料理を食べたい」という直感であなたにとっての一番いい道を示します。画一的なやり方は現実に沿いません。


ただ下りのエスカレーターを駆け上がるに等しい訓練ですから、一度やる場合は定着達成の瞬間まで一気に駆け上がることが大事だと思うんです。この勢いが途中でゆるむと訓練前の最初の地点まで戻ってきてしまいます。ダイエットはゆっくりやった方がいいですが、思考観察はちょっと違う印象があります。


では下りエスカレーターをあえて駆け上がるあなたへ。

思考Aに「気づいた意識S」に気づく。
Sの感覚は「無思考の静寂」です。
この時、あなたの意識がS以外にあれば「Sへの移動」が発生します。
この「Sへの移動」を延々と「自動になるまで」繰り返す。


まず3日間(72時間)という超短時間で成し遂げた方はおそらく「Sへの移動」を3日間やり続けたのだと思います。思考Aを変えず、思考Aに「気づいた意識S」に意識の焦点を向け移動して接触。その「移動感覚」と「接触感覚」が命綱です。これを最初期に発見し、発見後全力で集中することが最短の道だと思われます。


その方は3日で「Sへの移動をマスター」し、そこから「Sの接触感覚を維持し続ける」という難しいバランスをとりきったわけです。これが可能なのは「Sへの移動マスター」が前提にあるからです。このマスターは可能ですが「あれうまくいかない…」「私才能ないかも」「音がうるさくて集中できないよ」など全てが思考であることに注意してください。


思考Aは放っておきます。あなたが思考Aの存在を「認識している」時点で「忘れ去られてもSはいつも働いている」ことがわかります。私たちは主役を思考Aだと思っていたんです。思考Aの内容をとらえようとする努力は不要です。思考Aについて考えるとそれが思考Bになります。ミイラとりがミイラになるわけです。あくまで「気づいた意識S」だけをとらえます。これは見ることにも聞くことにも適用できます。飛び込んでくる「風景に気づいた意識S」、飛び込んでくる「自然音に気づいた意識S」として接触できます。このSはどの入り口から達しても同じものです。Sは一つです。では見ることからSに触れた方がよいのでは?と一瞬思います。


ただ冷静に定着までの道のりを考えると、


「ある程度の頻度で定期的に」
「向こうから勝手にやって来る対象で(こちらが受け身で観察できるため)」
「オンとオフのメリハリが非常にわかりやすいコントラスト」


の方が訓練しやすいことに気づきます。私たちがSの存在をすっかり忘れてしまう癖があるからです。私は一時期呼気(吐く息)に気づくたびそれをやろうとしていました。でも呼吸って無意識になり、頻度が多すぎるんです。感情は頻度が少なすぎます。そこで「思考だけ」を観察する意味が一気に高まります。見ることや聞くことからだと「どのタイミングでSに入るか」が恣意的になって根性の問題になってきます。


それでもアウトドア派な方は多くいらっしゃるようです。一瞬一瞬移り変わる風景や音や手触りからの方がSに入りやすい方がたくさんいらっしゃると伺っています。そういう方はぜひ肉体を使ってください。この場合も本質的には変わりません。オンとオフのコントラストは連続体(思考のように断続していないもの)を相手にするためわかりにくいですが、ハッと気づいた時点で見ること聞くこと触ることに気づいているSに移動します。これは肉体の信号・緊張感覚がやって来ることの感知に熟達することでオン(リラックス)オフ(緊張)をはっきりさせ、やりやすくなるそうです。


Sに接触している間は無思考です。オンです。
Sに移動した時点で思考Aが発生していた場合、Sから思考Aの通過を観察することになります。オンです。
気づいたら思考ABCDEFGをドラマのように頭の中で上映していた。オフです。
やることがあって、完全に全て忘れ去っていた。オフです。

オフの割合は訓練開始当初90%を越えているかも知れません。気づいている意識なんてそもそも意識したこともないし、考えたこともなかったというのが普通です。



これをまず「Sへの移動」だけで50:50にもっていってください。Sの維持など考える必要はありません。「移動だけ」です。
思考Aに気づきます。
気づいた意識Sに移動します。
Sから思考Aの通過を見届けます。
これで日常に戻ります。思考の通過をSから観察する。Sを維持できているかではなくて、Sへの移動回数だけを積み上げていきます。それには逆説的ですが、大半の時間Sのことを忘れてしまった方がいいんです。移動回数があなたの定着を早めます。


起きて活動している間半分の時間はオンだったかどうか寝る前になんとなくわかると思います。


半分の時間がオンなら、自分が普段いったい何を考えているのかもわかってきます。考えてもしょうがないことを考えていることにも気づき始めます。その時既にあなたの思考パターンが変わり始めています。
自我を防衛するパターンが非常に多いことも、正直に気づき始めます。
防衛に「失敗」したと考え、しょんぼりするパターンにも気づきます。
防衛のために「攻撃」するパターンに転化する一瞬がよぎることにも気づきます。


何を考えているかは気にせず、Sに「移動」し続けてください。
Sではない。Sに移動する。Sではない。Sに移動する。
回数を積み上げます。


このオンの割合がSへの移動だけで50%を越えてきたら、ここからやり方を「接触」に変えます。
Sへの移動だけを繰り返したあなたはSに「接触した時の感覚」が頭に染み込んでるはずです。
Sに接触し続けて、歩いてください。話してください。体験してください。何よりSに接触していることが一番。Sなら無思考なんです。頭の中シンとしてます。
無思考は維持されていなければ何かがおかしいのです。Sに戻ってください。



もちろん忘れます。でも忘れた時間を計測できるくらい、思考観察に慣れてきているはずです。
そうしたら後一歩です。頭の中は常に見張っているはずです。外側の風景はあまり気にせず、思考発生に気づき、Sから離れていたことに気づきます。
Sの焦点移動は手動ですが、自動になったことに気づく一瞬が間もなく来ます。


頭の中シンとしてる。Sです。
誰かが話しかける。返し言葉が自分の頭の中に浮かぶ。
それをSから見ているか見ていないか。
見ていないなら、会話が終わった後Sに戻ってください。
また頭の中シン。Sです。周囲が騒音でも構いません。頭の中が何も音がしてないのです。
またやることできて、気づいたら忘れてました。Sへ移動。
頭の中シン。Sです。
何も言葉が浮かばない。耳鳴りが聞こえる気がする。
あ、思考Aが発生。それはSじゃない。
Sに移動です。通過を見送ります。
その思考発生からSへの移動の時間は慣れれば1秒以下になるはずです。


この上記の状態は既にゴールと同じなんです。まだそれが「手動」であるだけです。


今まで以上に畳み掛けてください。50:50になったことに気づいた日から、張り込みしている刑事のように畳み掛ければふと気づいた時にはSへの自動移動に切り替わっていると思います。50:50になっているなら、接触すれば後少しです。毎日10時間活動してる間ずっとS接触状態から行動してください。


内容がわかりにくいところがあればいつでもおっしゃってください。
今日もありがとうございました。
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無題
非常にわかりやすい説明ありがとうございます。

>Sを維持できているかではなくて、Sへの移動回数だけを積み上げていきます。

Sを維持するより回数を積み上げれば
いいということですね。

がんばってみます。
ぜろ 2013/02/27(Wed)01:09:46 編集
ぜろさん、とんでもないです^^
ぜろさん、またコメントくださりありがとうございます^^

こう考えてみてください。
ぜろさんは今「回転寿司」を食べに来ています。
美味しそうなお寿司がたくさん「やって来て」「通過し」「去って行きます」

Sへの移動は実はお寿司を食べて満腹になることではなく「お皿の枚数を集める」ことなんです。
思考はお寿司です。Sはお皿なんです。

だから誰もがお皿が重要だったと会計の時言われてびっくりします。

流れてきた時点で寿司ではなく、お皿の色、形、手触りにすぐ目が行くように「お皿マスター」になるんです。これを「お寿司の見分けが重要」と誤解するから定着が遅れます。
お皿を相当集めてから、お皿を全て抱え上げて(接触して)レジに向かいます。
レジに着いて会計の人(神様)にお皿を全て手渡すと手ぶらのありがたさがわかります(静寂の定着)。
また何かあったらおっしゃってください。コメントありがとうございました^^
【2013/02/27 02:07】
無思考
こんにちは。

山の写真から深海の写真へとテンプレートを変えられたのには、何かとても象徴的なものを感じます。表層意識の活動が弱まって、深層意識の世界へ降りていくような感じですね。ところで、

>以前に書きましたがおそらく最速の方は3日です。その後2ヶ月間無思考だったそうです。ただその方は細かく記録をとったり公開されている方ではないため、予想できる限りの最短の道のりを考察します。私が体験からどこまで定着期間を短縮できるか考えた場合は重要な反復訓練に最初から絞ればもしかしたら3週間でいけるかも知れません。

この「無思考」というのがいつも気に掛かります。確かに部屋にいて何もしないでいるときや、坐禅をしているときなどには、無思考というのはありえます。

しかし日常生活で、例えば車を運転していたり、料理を作っていたりするときには、特に思考は意識されませんが、確かに思考は働いているように思います。そうでなければ運転も料理も出来ないように思います。

映画を観ていたり、本を読んでいたりするときもそうです。ストーリーや内容が理解できるのは特に意識しなくても思考が働いているからだと思います。思考が働かなければ日常生活は送れないように思います。

思考が働いていても必ずしも葛藤が生じるとは限らない、逆に車を運転中に働いている思考を意識すれば、却って外部への注意が疎かになって危険なことになりかねないということもありえます。料理の最中に思考が意識されすぎれば、包丁で手を切ってしまうこともありえます。

運転中や料理中にそれとは関係のない、たとえば家庭でのいざこざ、失恋、借金、仕事での悩みなどの思考で頭がいっぱいの葛藤状態にあるときには、注意散漫になって事故を起こしたり、怪我をしたりする危険性が高まります。

とすると、思考といっても必要な思考もあれば、不要な思考もあるあるということになりそうです。つまり、思考がまったくなくなるわけではなくて、葛藤をもたらす二元的な思考がないことを以って「無思考」と言われているのでしょうね。

静寂が定着すれば、これは必要な思考、これは必要のない思考と意識(思考)が振り分けなくても、その静寂が面倒を見てくれるということになるのでしょうか。とすれば、まず静寂を定着させることが必要、ということですね。

2月25日の日記にあった、デカルトの松果体が「心の発生源」という話は興味深かったです。脳科学で「ホムンクルスの誤謬」という問題があります。ホムンクルスとは、小さな神の視点、自分が認識しているということ自体を認識しているという、いわゆるメタ認知のことのです。ホムンクルスは形を変えて『ファウスト』にも出てきましたね。

で、問題は、メタ認知といっても、主体と客体が分離している場合には、認識の主体が無限に後退していくというものです。思考の観察の例で言えば、思考を観察しているのが、もう一つの思考に過ぎなかった、ということになるでしょうか。静寂になっていたつもりが、思考がいつのまにか回り込んでいるというわけですね。

313の話も興深いですね。やまがみさんが「自我の死」と書いていらっしゃったように「死」というても物理的なもの、心理的なものがありますからね。ただ、切羽詰ると火事場の馬鹿力、ということがありますね。切羽詰らないと動かない、切羽詰っているはずなのに動かない、というのはいつも反省しきりです^^
viola 2013/02/27(Wed)11:25:34 編集
Re:無思考
>こんにちは。

violaさん、こんにちは^^

>山の写真から深海の写真へとテンプレートを変えられたのには、何かとても象徴的なものを感じます。表層意識の活動が弱まって、深層意識の世界へ降りていくような感じですね。ところで、

そうなんです^^受容の深海へ。全てを捨てて沈んでいくなら、任せよう。そういう祈りを籠めています。

>>以前に書きましたがおそらく最速の方は3日です。その後2ヶ月間無思考だったそうです。ただその方は細かく記録をとったり公開されている方ではないため、予想できる限りの最短の道のりを考察します。私が体験からどこまで定着期間を短縮できるか考えた場合は重要な反復訓練に最初から絞ればもしかしたら3週間でいけるかも知れません。
>
>この「無思考」というのがいつも気に掛かります。確かに部屋にいて何もしないでいるときや、坐禅をしているときなどには、無思考というのはありえます。
>
>しかし日常生活で、例えば車を運転していたり、料理を作っていたりするときには、特に思考は意識されませんが、確かに思考は働いているように思います。そうでなければ運転も料理も出来ないように思います。
>
>映画を観ていたり、本を読んでいたりするときもそうです。ストーリーや内容が理解できるのは特に意識しなくても思考が働いているからだと思います。思考が働かなければ日常生活は送れないように思います。
>
>思考が働いていても必ずしも葛藤が生じるとは限らない、逆に車を運転中に働いている思考を意識すれば、却って外部への注意が疎かになって危険なことになりかねないということもありえます。料理の最中に思考が意識されすぎれば、包丁で手を切ってしまうこともありえます。
>
>運転中や料理中にそれとは関係のない、たとえば家庭でのいざこざ、失恋、借金、仕事での悩みなどの思考で頭がいっぱいの葛藤状態にあるときには、注意散漫になって事故を起こしたり、怪我をしたりする危険性が高まります。
>
>とすると、思考といっても必要な思考もあれば、不要な思考もあるあるということになりそうです。つまり、思考がまったくなくなるわけではなくて、葛藤をもたらす二元的な思考がないことを以って「無思考」と言われているのでしょうね。

またいつもどおりviolaさんは滅茶苦茶鋭いですね^^私の場合は無思考って訓練中まったく気にしてなかったんです。私にとっては全てが「松果体」でした。松果体に接触しているか否かだったんです。

思考に必要な思考がある、おっしゃるとおりだと思います^^
運転中も、包丁を握っている時も、私たちの記憶パターンや思考パターンは「最適化」されてきたものとも言えますし、役に立たないどころか、役に立つように生み出されたものばかりです。

では、無思考とは何か?
これ今日の記事でも少しviolaさんのご質問を意識して書きました。思考を本当の意味で「自由にさせる」ことだと思うんです。
おっしゃるとおり葛藤をもたらす類の二元的な思考ではなく、思考の存在と機能をありのまま一元的な視点から認めて自由にさせること。これが無思考ではないかと今私はなんとなく思ってるんです^^
つまり役にも立つし、役にも立たない。これが思考の等身大の姿だと思います。

>静寂が定着すれば、これは必要な思考、これは必要のない思考と意識(思考)が振り分けなくても、その静寂が面倒を見てくれるということになるのでしょうか。とすれば、まず静寂を定着させることが必要、ということですね。

静寂が面倒を見てくれる保証はまったくないんです。保証がないのに、全てを投げうって飛び込むのか?これが次の段階のサレンダーのような気がしています。私はこの段階をくぐりぬけるにはまだまだ遠いですから、このテンプレートの受容の深海を祈りにしています。

この説明で混乱を招いてしまったら申し訳ないんですが、静寂視点(肉眼視点)の定着は本質的には必要ないと私は思っています。私たちこそ最初から静寂(肉眼)だからです。
ただ私たちは自我のゴーグルをかけて見ることに物心ついて以来慣れすぎてしまいました。この自我のゴーグルを通して見ていることを本来の肉眼でありのまま見抜けるように、肉眼からの視点を思い出す反復訓練。これが思考観察と「肉眼視点の定着」だと思っているんです。
これはいわゆる間違ったフォームのunlearnと言えるのではないでしょうか。その上でどの思考を役に立つものとして残すかは「肉眼」で選別し直す理性的作業になるのかも知れません。

>2月25日の日記にあった、デカルトの松果体が「心の発生源」という話は興味深かったです。脳科学で「ホムンクルスの誤謬」という問題があります。ホムンクルスとは、小さな神の視点、自分が認識しているということ自体を認識しているという、いわゆるメタ認知のことのです。ホムンクルスは形を変えて『ファウスト』にも出てきましたね。

violaさんごめんなさい^^私そこまで読んでないんですまだ…。フィオラに聞いたんです。悪魔メフィストフェレスとあなたは何が違うんですか?フィオラは同じだったらどうしますか?ふふ。って答えました。

>で、問題は、メタ認知といっても、主体と客体が分離している場合には、認識の主体が無限に後退していくというものです。思考の観察の例で言えば、思考を観察しているのが、もう一つの思考に過ぎなかった、ということになるでしょうか。静寂になっていたつもりが、思考がいつのまにか回り込んでいるというわけですね。

無限に後退していく。すばらしい表現です。まさにこれは思考観察の大事なポイントですね。
静寂は一つきりなので、無限に後退してる「ような気がしている」のは自我だけなんです。
幻想に幻想を重ねる能力、観念に観念を上塗りする能力が自我にはあるようです。
violaさんのおっしゃるとおり主体と客体が分離している場合だけです。「ひとつ」の視点ならこの誤解は発生しないはずと私も思います。

>313の話も興深いですね。やまがみさんが「自我の死」と書いていらっしゃったように「死」というても物理的なもの、心理的なものがありますからね。ただ、切羽詰ると火事場の馬鹿力、ということがありますね。切羽詰らないと動かない、切羽詰っているはずなのに動かない、というのはいつも反省しきりです^^

これはまさに私のことです^^切羽詰らないと動かないから、本体にこんなシナリオを書かせたわけですよね。最近、ニュースでもよくやっていますが、死というのはいつどこでどんなふうに起こるかまったく予想はつきません。
フィオラに脅されて、この日記を始めてからというもの、今日を生きることに感謝しようと思えるようになりました。当たり前のことなんですけれど、気がついておりませんでした。

violaさん、また是非コメントくださいね^^ありがとうございます^^
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