「思考観察」まとめ 第3回


こんばんは。今日のテーマはまず「S(静寂・真我)とは何?」ということを考えてみたいと思います。訓練を始める前、私もさっぱりわかりませんでした。

頭の中には「おしゃべり」がノイズのように起こっていて「静かになりたい」(訓練中の皆さんはおわかりですよね。この願望がもう思考なんです)とは思っていたんですが、思考Aが思考Bを呼び思考ABが思考CDEを呼び、いつもどんちゃん騒ぎをしているんです。

「衣擦れ(きぬずれ)の音」ってありますよね。少し体を動かすたびに服がこすれて音を出すんです。あれと同じことが精神や感情でも起きているみたいです。衣擦れの音も精神の音も「あるがまま」音を発しているだけでSとは無関係なんです。Sとは音がないことではないようなんです。

「音を自由にさせる」のがSのようです。
この時変な気分になります。え?「私が」自由にさせてるんでしょうか?
そもそも「最初から自由だった音」に「こうあるべき」って地団太を踏んでいたのは、一体誰だったんでしょうか?もしかして、全てが「逆」でした?雑音は、まさか…「私」?私…「誰」?


閑さ(S)や岩にしみ入る蝉(S)の声

これ日本人なら言いたいことわかるような気がしてきます。蝉がどんなにうるさくても、それでも静かに感じることってあるんですよね。その時「蝉(S)!静か(S)にしなさい!」という精神の声もありません。蝉はもともと自由です。

静まれる一瞬がない。右往左往している。統制をとりたい。でもとれない。
書き換えます。

静まれる一瞬がない。誰が?
右往左往している。誰が?
統制をとりたい。誰が?
でもとれない。誰が?

この誰が?がS移動の反復訓練です。
今この一瞬に私…誰?
言葉を発しているのは誰?
回転寿司のようにやって来たこの思考に気づいている意識は誰?

今という体験に気づいているのは誰?

体験は寿司です。Sは皿です。

今私は寿司?それとも寿司をのせている皿?

今皿をとってください。皿だけとってとってとりまくってください。
あなたは皿かも知れないんです。寿司ではないかも知れないんです。

定着してからわかったことは「私は皿である」という感覚から「生きることができる」です。
寿司は皿の上で飛び跳ねて騒いでいただけで「私ではない」ようなんです。
この寿司と皿の「質的な違い」が定着前はよくわかりませんでした。

こうやって日記書きますよね。
思考を拾って文字をキーボードで打ちます。この文字とか言葉は全て「寿司」なんです。寿司で寿司を表現して意味を生み出そうという寿司にコントロールされているんですね。

シースーの!シースーによる!シースーのための!ザギンを…

…。




ここから先が今日のメインテーマです。
「S」と「I(愛)」を連携させる可能性について書きます。

今私は胸が溶けるようにあったかくて満ち足りた気持ちでいます。
そして松果体訓練の結果なのか、「3つの眼(肉眼と第3の眼)」が光を放射している感覚があります。意識の焦点はしっかりと松果体に座っていて、外部風景を自分の頭のうしろから思考ごと見ているような感じです。

別物に思えるSとIなんですが、実は同じものです。
すべてはひとつの構成要素でできており、色や形が違っても同じなんです。

S=I 真我=愛
を体感した時こそ悟りであるという表現も成り立つと思います。

私はやまがみさんに「サレンダーまでの時間短縮」として
SとIを「同時感知」する反復訓練の可能性をご相談していたわけです。

事実私の場合は28日目にIを感知し、45日目にSが定着するというルートを辿りました。

28日目のIの感知は正確に言うと「両肩まで燃え上がるような」人生で初めてのIの動きの感知でした。

Iとは「今ありのままの私を私は愛している」かどうかの真実です。
「今ありのままの世界を私は愛している」かどうかの真実です。

未来を求めず、何者にもならず、過去に戻ろうともしません。
全てはこれ以上「良くならない」ことを認め、

今ありのままの私を、私は、認めるのか。

これはあなたが決めることではないんです。
もう決まっていることなんです。

あなたはあなたを実は認めています。
それに気づかないフリを続けるか。それだけのことなんです。
わかります。癪ですよね。もう決まっているなんて。
それではどこに自由があるのか。愛の中に本当の自由があるんです。

愛以外になる自由、私たちには最初からなかったんです。

愛を見つけるために他の場所を探す必要はありません。
あなたが愛そのものであることを今、もう観念して認めればいいだけです。
冷たかった過去の記憶を証拠に提出しますか?

ほら、私は愛ではない!でしょう!?

Sからありのまま見つめるあなたは、心の声が自分で自分に聞こえてしまいます。

私は今、私を、この世界を愛している。
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無題
非常に楽しく読ませてもらいました。

>この寿司と皿の「質的な違い」が定着前はよくわかりませんでした。

これは実践していくとわかるようになるものでしょうか。

いまは皿(S)と寿司の違いがいまいち実感できません。

今日もブログありがとうございます。
ぜろ 2013/02/28(Thu)01:01:01 編集
こちらこそありがとうございます^^
ぜろさん、おはようございます^^

寿司と皿の質的な違いはですね、「背景」に溶け入った時の「感覚」なんです。
Sに入ると私の場合は「甘く溶けるような愛の感覚」が胸から染み出してくるのが瞬間的に感じとれます。寿司は「概念」なんです。どんなに言葉を読んでも「概念」は心を暖めることはありません。冷たく響くだけなんです。

Sは道具ではありません。ぜろさんの本当の感覚です。最初はまったくわからないと思います。
この質的な違いは「感覚」であること。この感覚がまず「ちょっとくつろいでいる」ことに気づいてください。「穏やか」な感じがする、でもいいです。そして、ハートチャクラが開いた後ならば、実は皿は「砂糖」でできていることにも気づいていきます。ぜろさんは本当は、いつも全てを愛していることを感じ取れる意識そのものなんです。徐々にで構わないんです。まずはくつろぎから感じてください。

私も最初は、松果体を肉体の一部の器官ととらえていましたから、何の神秘も感じることができませんでした。ですが、何度も何度も「奥」に入るうちに、Sの感触というのは「この世界」のものではなく「別の実存」から送られてくる信号であることに徐々に気づくようになりました。

内側に別の世界が広がっているんです。本当です。今ぜろさんの頭の中、胸の中のある位置に、しっかりとそれと通じ合う扉があります。それが開いた時に、Sの本当の感触が染み出してきます。これは言葉でも概念でもなく、感覚です。ぜろさんの熱意ならすぐに見つかりますよ^^

実際のところ一番の近道は溺れる中で空気を求めるぐらいの熱意だと思います。
またコメントお待ちしてます^^
【2013/02/28 06:11】
俳句について
おはようございます。

>閑さ(S)や岩にしみ入る蝉(S)の声
これ日本人なら言いたいことわかるような気がしてきます。蝉がどんなにうるさくても、それでも静かに感じることってあるんですよね。その時「蝉(S)!静か(S)にしなさい!」という精神の声もありません。蝉はもともと自由です。

以前書いたコメントで松尾芭蕉のことに触れたことがあったので、この俳句を目にしてとてもうれしかったです。蝉の鳴声を知覚も認識もしている、だけど静かなんですね。何故かと言うと、「うるさい!」とか、「だまれ!」という思考なくその音が聴かれているからなんですね。心の騒ぎ、思考の騒ぎというのは、まさにこの「うるさい!だまれ!こんちくしょう!」という思考だったのですね。

他にも芭蕉の俳句に有名なところで「古池や蛙飛び込む水の音」というのもありますね。水の音が静かなのは、それを聴いている心が静かなんですね。そのとき、どういうわけかこの蛙が無性に愛おしく感じるのです。蝉の句もそうでしたが。精神(マインド)が静かなとき、心(ハート)が何かを感じているのかもしれませんね。

私事ですが、軽井沢に行ったとき「馬をさえ眺むる雪の朝(あした)かな」という句碑を見つけました。この句にも、雪の降る朝の全ての音を吸収してしまうような静寂さがあります。「さえ」という言葉は「~までも」という意味と「冴える」という意味のダブルミーニングだと感じます。雪の降る朝の冴え冴えとした清澄な空気の中、これもまた馬への愛おしさが湧いてきます。

これらの句は、聞こえる音や風景を知覚や認識はしても判断はしていない、ありのままに聞かれている、観られているということになるでしょうか。つまり、こういうことだったのですね↓↓↓

>「音を自由にさせる」のがSのようです。
この時変な気分になります。え?「私が」自由にさせてるんでしょうか?
そもそも「最初から自由だった音」に「こうあるべき」って地団太を踏んでいたのは、一体誰だったんでしょうか?もしかして、全てが「逆」でした?雑音は、まさか…「私」?私…「誰」?

>別物に思えるSとIなんですが、実は同じものです。
すべてはひとつの構成要素でできており、色や形が違っても同じなんです。
viola 2013/02/28(Thu)11:01:03 編集
Re:俳句について
violaさん、こんにちは^^

>>閑さ(S)や岩にしみ入る蝉(S)の声
>これ日本人なら言いたいことわかるような気がしてきます。蝉がどんなにうるさくても、それでも静かに感じることってあるんですよね。その時「蝉(S)!静か(S)にしなさい!」という精神の声もありません。蝉はもともと自由です。
>
>以前書いたコメントで松尾芭蕉のことに触れたことがあったので、この俳句を目にしてとてもうれしかったです。蝉の鳴声を知覚も認識もしている、だけど静かなんですね。何故かと言うと、「うるさい!」とか、「だまれ!」という思考なくその音が聴かれているからなんですね。心の騒ぎ、思考の騒ぎというのは、まさにこの「うるさい!だまれ!こんちくしょう!」という思考だったのですね。

そうでした^^芭蕉についてviolaさんから伺ってましたね。私はこの一句しか知らず、まさに静寂とはこの句のことしか思いつきませんでした^^
思考の騒ぎは「心理的抵抗」とも言えるかも知れません。あるがままに抵抗するから葛藤になる。今あるものしかないのに、今あるものをないものにしようとするマインドの逃避気味の抵抗です。変えるにしても、今あるものをいったん認めないと変容のパワーも起きない気がします。

>他にも芭蕉の俳句に有名なところで「古池や蛙飛び込む水の音」というのもありますね。水の音が静かなのは、それを聴いている心が静かなんですね。そのとき、どういうわけかこの蛙が無性に愛おしく感じるのです。蝉の句もそうでしたが。精神(マインド)が静かなとき、心(ハート)が何かを感じているのかもしれませんね。

蛙が愛しい…今なんとなく想像してみました^^静かな時は私もそう感じるかも知れないって思いました。violaさんの句に対する洞察は素人の私にもヴィジョンを贈ってくださるようです^^
マインドが静かなとき、ハートが何かを感じている。重要すぎるお言葉です。
マインドがもうダメだと諦めて手放したとき、やっとハートの扉が開く。こういうふうにも言えるかも知れませんね^^意図を捨てる。もうなるようになってしまえ!人間ってみんなそんな道を辿るのかも知れません^^

>私事ですが、軽井沢に行ったとき「馬をさえ眺むる雪の朝(あした)かな」という句碑を見つけました。この句にも、雪の降る朝の全ての音を吸収してしまうような静寂さがあります。「さえ」という言葉は「~までも」という意味と「冴える」という意味のダブルミーニングだと感じます。雪の降る朝の冴え冴えとした清澄な空気の中、これもまた馬への愛おしさが湧いてきます。

これは数分想像してみました。一気に静寂の深淵に突き落とされるような気がします。この句を詠んだ方もviolaさんのようにそれに共鳴する方も、深い雪の中に深深と息づいているような清澄な呼吸を持つ方ですね。その静寂の深度が羨ましいかぎりです^^

>これらの句は、聞こえる音や風景を知覚や認識はしても判断はしていない、ありのままに聞かれている、観られているということになるでしょうか。つまり、こういうことだったのですね↓↓↓
>
>>「音を自由にさせる」のがSのようです。
>この時変な気分になります。え?「私が」自由にさせてるんでしょうか?
>そもそも「最初から自由だった音」に「こうあるべき」って地団太を踏んでいたのは、一体誰だったんでしょうか?もしかして、全てが「逆」でした?雑音は、まさか…「私」?私…「誰」?
>
>>別物に思えるSとIなんですが、実は同じものです。
>すべてはひとつの構成要素でできており、色や形が違っても同じなんです。

また導いていただきました^^violaさんにもコメントをくださる皆さんにもいつも教えていただいてます。
知覚や認識はしていても、判断はしていない。ただ起きていることが起きている。深深と呼吸しているということですね^^

また色々教えてくださいね^^いつもありがとうございます。
【2013/02/28 21:52】
Re:俳句について
おはようございます。

「馬をさえ眺むる雪の朝(あした)かな」も松尾芭蕉の句です。ついでに、といってはなんですが、極めつけというか、3月2日付の日記にも関連しているタイムリーな、芭蕉のもう一つの俳句を紹介します。

「荒海や佐渡に横たう天の河(あまのがわ)」

これも有名な句なので、どこかでお聞きになったことがあるかもしれませんね。2月1日付の日記でフィオラさんが「天の川は深深と呼吸し ただそれをみつめています」とおっしゃっていました。美しく、味わい深い表現ですね。それを読んで、真先に思い浮かべたのが芭蕉のこの句でした。これも雄大で大好きな句です。

「天の川」はnobodyさんのおっしゃる「S(真我・静寂)」ということになるでしょうか。「荒海」はマインドの騒ぎ、檻の中で落ち着きなくあちこち動き回っている猿、いわゆるモンキーマインドというやつですね。目の前には荒れた海が拡がっているばかりだが、ふと空に目をやれば「天の川」が夜の闇に輝きながら静かに世界を包んでいる。佐渡の孤島が自分のようにも思えてきます。また機会があれば、フィオラさんの詩も取り上げていただけたらうれしいです。

>また色々教えてくださいね^^いつもありがとうございます。

いえいえ、こちらこそいつも刺激をいただいており、感謝しております。
viola 2013/03/02(Sat)09:51:50 編集
Re:Re:俳句について
violaさん、おはようございます^^

>「馬をさえ眺むる雪の朝(あした)かな」も松尾芭蕉の句です。ついでに、といってはなんですが、極めつけというか、3月2日付の日記にも関連しているタイムリーな、芭蕉のもう一つの俳句を紹介します。

芭蕉だったんですね^^すごい句だと思いました。美術上の基本概念であるミメーシス現実模写でありながら、描写は静寂の深度から発している。

>「荒海や佐渡に横たう天の河(あまのがわ)」
>
>これも有名な句なので、どこかでお聞きになったことがあるかもしれませんね。2月1日付の日記でフィオラさんが「天の川は深深と呼吸し ただそれをみつめています」とおっしゃっていました。美しく、味わい深い表現ですね。それを読んで、真先に思い浮かべたのが芭蕉のこの句でした。これも雄大で大好きな句です。

お恥ずかしい話ですが初めて耳にしました。芭蕉の代表的な句とお聞きして今調べてきました。これは彼の内面の風景の描写なんですね。フィオラが何を考えているのかは顕在意識の私にはわかりませんが、彼女も芭蕉の句が好きなのかも知れません^^

>「天の川」はnobodyさんのおっしゃる「S(真我・静寂)」ということになるでしょうか。「荒海」はマインドの騒ぎ、檻の中で落ち着きなくあちこち動き回っている猿、いわゆるモンキーマインドというやつですね。目の前には荒れた海が拡がっているばかりだが、ふと空に目をやれば「天の川」が夜の闇に輝きながら静かに世界を包んでいる。佐渡の孤島が自分のようにも思えてきます。また機会があれば、フィオラさんの詩も取り上げていただけたらうれしいです。

天の川がS(真我・静寂)。フィオラに言われてもすっかり忘れていて、violaさんにご指摘いただいて今初めて思い出しました。Sは同じ星の海ですが、私は未だ海岸沿いで水にくるぶしが浸かっている浅さでちゃぷちゃぷ遊んでいるだけのようです^^武田信玄の風林火山の山は動かざること山の如し。この山でマインドの猿が遊んでいるのですね。猿であることも山であることも今、選べる。芭蕉の内面の風景の雄大さに心打たれます。

フィオラとの会話も再開しますね^^芭蕉の句に共鳴するviolaさんのような方が読むことを思うと少し緊張しますが、ありのまま今の私の耳で聴こえる波の音を描写します^^

>>また色々教えてくださいね^^いつもありがとうございます。
>いえいえ、こちらこそいつも刺激をいただいており、感謝しております。

詩人とは愛がみえる方ですね。世界の絆が自分でみえるからこそ、言葉に分離が生まれない深度を見通し詩という形にできる。またご指導いただけると嬉しいです^^ありがとうございます。
【2013/03/02 11:18】
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