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愛を体現するか愛の欠如を体現するかはまさに紙一重


わたしはあなたとともにあるという「あり方」そのものが愛です。
愛が欲しかったという自我の反応が愛の欠如です。


これほんとに微妙なんですね。
あり方そのものが愛ですから、すべてが愛なんです。
どんなあり方をしていようとこの瞬間の本人が愛そのものです。
ところが本人がたったいま愛を感じていないなら


「意味ないじゃん」


という(自我の)願望からすれば、意味ないんです。
だから苦しいなら愛を体現すればいいだけなんです。自我が(活動をやめることで)。


止まれば愛(を感じる)。


それならば止まろうと自我が努めても止まれません。
止まろうは行為ですから、動きそのものになってしまうんです。


もう止まってますよね?
最初から止まってましたよね?
動いているという行為者の感覚を採用しているのは、行為者という概念を採用しているからです。


行為者がいる!!!
という根本の概念をそのままにしておいて、止まることはできません。


実際、すごく困惑しませんか?


もうあなたは悟っています。
もうあなたは止まっています。
もうあなたは体験しています。


って言われて、ああそうですかって納得できるものでしょうか。
自我がいるかぎり納得できないですよね。


記憶と期待、肉体と想念が私を描き続けています。
描き続けていいんです。


いいんですが、描ける背景が先に存在していることに気づくことなんです。


「分離しているという想像」は単独で存在できるものでしょうか?


変な言い方ですが、分離しているというのが事実なら、
分離しているという想像は分離しているために「気づかれない」はずではないでしょうか。


気づかれるということは、その想像自体も「リアリティから分離していない」んです。


気づきがあるところには分離はないんです。
気づきとは、統合そのものです。


それはこの「体験(経験)」そのものです。


わたしたちは既に統合されている体験そのものです。


愛を体現するか、愛の欠如を体現するかの違いは、
この体験そのものに行為者というレッテルを貼るかどうかです。


「愛の欠如」自体がレッテルなんですね。


愛はスクリーンそのものであり、愛の欠如は映し出された映像の批評なんです。


映像の批評をやっている間は、愛の感覚を感じる暇がありません。


批評しかできない自我のことをこれ以上責めますか?
責めることができるのもまた自我だけです。
この堂々巡りに気づけるのはスクリーンだけです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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