内側と外側をパッと無くし、私がいないことだけを痛感する その1


久しぶりにシリーズで書いてみます。
私がいて、「私とともに何とかする世界」についてはみなさんもわたしも散々試しました。もうこの方向はいったん脇に置くとしますね。


では、「私がいない」ことだけを痛感したら


私がいない世界


では何が起きるんでしょう。


スライム10か条だと「すべては自動的に起きている」「誰もいない」ことを0.1秒の世界(天国)への扉を開く鍵と見なしています。


すぐに気づくのは、私がいないと、
いまある起こりを起こらしめるということ。


抵抗する主体がない、から諦めるしかなくなるんですね。
思考がやって来ますね、流れてきました、誰がこれに抵抗できるんですか。


誰もいない以上、何もできないんです。


では「誰かがいる」と感じている普段の態度だとどうなりますか?


抵抗バリバリですよ。


誰もいない、と痛感するということはつまり、抵抗を一切放棄する手放しに直結しているんです。


わたしたちって実は本当は、抵抗したがっているんでしょうか?
実はもう疲れきっていて、抵抗を諦めたくて仕方ないってことありません?
疲れた大人が目につくのは、本当は自分が疲れているんじゃないでしょうか。


誰もいない、私がいない、抵抗できない。
誰もいない、私がいない、抵抗できない。


起こる→起こる
起こる→抵抗できない→そのまま起こる


内側と外側という感覚は普段確かにあるんです。


たとえば心の中で、「うわあ嫌な奴だなあ。もう顔も見たくないよ」と思ったとしたら、その心の声は内側で響いた声だから、外側には漏れていないとか思いませんか?


外側>内側
内側>外側


だと無意識に信じている状態は、何者かが外側と内側の境目に「いるつもり」になっている証拠なんです。


そして意識の焦点は、その境目の何者かに当てられています。
これは先日書いたレーザービームです。


この肉体焦点をそっと外すには、内側と外側をパッと無くすこと、
今この瞬間を見渡して「私」という主体が存在しないことを確認することです。


この肉体の焦点は、
不注意の焦点であり、中心からズレています。


限界があるものに同一視している分だけ、ズレているんです。


いま、これだけに集中してみます。


私が、いない。


起こりに抵抗できる者が、いないんです。






わたし昔からサグラダ・ファミリア好きだったんです。
理由は、ガウディの死後多くの人がアレの完成を夢見てくれているでしょう。最初に建築したガウディは世界一の幸せ者だと思ったからなんです。


裏返すとそのときの動機は、「自分の死が怖い」だったんです。
だから死を乗り越えるものを、建物や、何かの対象に託そうとしました。


不思議なものですね。
永遠は見たことがあるのに、手元に永遠がないと感じる限り、人は依存対象を求めるんです。
存在不安が消えないからです。


大いなる愛の光であるわたしたちが、人間としてこの世に生まれることを選んだのは若干酷なときもありますよね。なぜなら取り扱い説明書が親切に完備されているとはとても言えないからです。この時代は以前に比べたらそれでもずいぶん親切になってます。


フィオラに呼び戻されてから感じるようになったのは、聞く耳を持っていたのか、持たなかったのは自分の選択ではなかったかということです。


シリーズ続けてみますね。また明日です。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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