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内側と外側をパッと無くし、私がいないことだけを痛感する その5


「考える者」が「存在していない」!?ば、バカな…


答えは、静かにすることだけなんです。


自我とはノイズです。イエスかノイズか。これだけ。


だからノイズが邪魔をやめること・妨害をやめることなんですね。
うるさい、じゃないんです。
あなたが「うるささ」そのものなんです。ショックじゃないですか?


私たちって「うるささ」なんですよ?
はあ???


そして、だからこそ、「うるささ」が努力して「静かになろう、生まれ変わろう、今日から静かになります」って宣言しても、その宣言がうるささそのものなんです。


ではどうすれば静けさに戻れるのか。


「ノイズ発生源が存在していないことを見抜く」ことに集中するんです。


それは「私」の無効化です。


先日のラマナ・マハルシの「想念は考える者にとってあらわれます。考える者の真我としてとどまりなさい」の文脈で言うと、考える者が存在していないことを見抜いていれば(現在進行形)想念は発生しなくなります。


根本の思考というのは「ノイズが、ここにいます!」です。


この「ここにいます!」がうるささの核心なんです。


「私は在る」というビーイング、いのちの感覚を私達が曲解していることが

犯人のなかの犯人なんです。


ここにいます!は個人じゃないんです。
個人だと曲解している思考があるだけ。


ここにいます!→ノイズ(個人)が。


という矢印の曲解なんです。


この→を見抜く、根源の思考の犯人が「存在していない」ことを見抜くことに集中します。


その犯人は実際のリアリティより一拍遅れて出現しています。
実際のリアリティの中には、犯人は存在していません。
この自縄自縛を断ち切るには、実際のリアリティを調査することです。


犯人が「いるような気がしていただけ」が本当かどうか調査するんです。
先日日曜の朝に書いた川の上流を確かめたことは、誰であろうと人生で一度もないんです。
思考を流した主体は未だ確認されたことがありません。これでは実在しているとは言えません。


「(思考が)流れて来るのを見ていること」はあります。見ている者は見つかったことがありません。流す者も見ている者も想像にすぎず、見ていることだけが継続しています。
主観的体験の中でも、事実と想像は違います。


(空間モードへ)「転換」するということは、未知に開くことなんです。
今この瞬間の未知に対して開くことです。


怖いから閉じようとする「私」が通常働いてますから、「私」を無効化します。


未知に開くこと、どんなものともともにあることが愛そのものなんです。
わたしたちの本質そのものです。


明日につづきます。



苦しむ必要はないとあの世側、光の存在は伝えたがっています。
分離と苦しみを指向する「必要がない」ことを伝えたがっています。


このメッセージ伝達の過程で、争いのエネルギーを増し加えることはしてほしくありません、そしてそんな暇はもうありません。


出会いと出会いに偶然はありません。意味があって出会ったんです。


愛とは、わたしはあなたとともにある。


怖れとは、わたしはあなたとともにある必要はないと微妙な方法で発信している人のことです。これ時代的に結構大事じゃないかなと感じてます。



自分にはわかっていると思うとき、あなたは真理の糸を見失っています。


人は一般に、自分が受け入れている「真実のモデル」を「真実である」と主張する傾向がある。真実がそのモデルに合わないと困ってしまう。この場合、自分自身を責めるか、「モデルに合わないのでそんなことは不可能だ」と宣言する。自分のモデルが限られているとは認めようとしない。
すべてのモデルには限界がある。このことを忘れてはいけない。これを忘れない限り、特定の真実の比喩を偏見のない形で受け入れることには問題はない。


なんとなく、自戒です。
最近断定を多く使っている気がしますので、もし読まれている方に不快感を与えていたら申し訳ないです。すべてnobodyの主観です。






ぷーくすくす。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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