川と擬人化ミステリー(日曜の朝のフィオラ)
地図を描きます。
川がありますね。
その川にはつぎつぎとゴミ(思考)が流れてきます。
ゴミの種類は選べます。
つぎは食べ物に関連したことを流してと要望すれば、食べ物に関連したゴミ(思考)が流れてきます。
そこであなたは考えるわけです。
こりゃ上流に誰かいるな…それはきっとわたしに違いない。
ストップ。
ここで考えてみましょう。
視界に見えない「誰か」が上流にいて、ゴミ(思考)を流す主体であるという想像はここにあります。でも、誰かは「いまいません」それは上流にいるだろうと想像されているだけ(流れてきているだけ)です。
もし上流にいるだろう流す人があなたなら、
ここで川を見ている人は誰なんですか?見ている人は確実にあなたです。
見ている人と流す人
見ている人は(事実)
流す人は(想像)
です。想像を事実の延長として捉えたままあなたは「行為者の像」を描きつづけていますね。
その想像自体も流れてきたゴミです。
それを見ている者は確実にあなたです。
ゴミは上流に誰かいるだろうという想像を「行為者の像」として架空に形成し、いま行為者の感覚(架空の感覚)を形成しています。
あなたの自己認識の半分は作り物です。
これは川を流れるゴミに対して行った「擬人化」です。
あたかも生き物のように扱いました。
その擬人化の間、確実な事実である「見ているあなた」は置き去りになっていますね。
あなたは半分を事実、半分を想像として自己像を描いているということです。
過去と未来は投影です。
確実なのはいま見ているあなたが「在る」です。
見ているあなたを対象として捉えてしまえば、その対象を誰が見ているの?という堂々巡りになってしまいますから、事実のみを指すなら「在る」です。
擬人化。上流に誰かいるだろう。在る。
擬人化。上流に誰かいるだろう。在る。
在るは、これは人だろうと想像したりはしていないのです。では誰が想像しているのですか?
こんばんは。
伊勢白山道さんの今日の記事、感謝というハケの記事はただただすばらしいと感じました。
引用できませんので、もしよかったらぜひご一読ください。
想像を絶するほどの辛い境遇を乗り越えてこられた方っていらっしゃるんですよね。
アンネ・フランクもそうでしたが、その辛さの中でも神を信じ、人間の善性を信じ、感謝とともに生きる人はまさに愛の英霊です。
あれだけされて恨んでないんですか?って彼らに聞いても、きっと恨んではいないんですよね。
受け取り方が、違うんです。鼻たれ小僧の一人として、生きている間忘れないようにしたいなと今日感じました。
記事は後でまた書きます。
写真は松嶋尚美の深夜特急。昔の動画を初めて見たんですが、松嶋ってしゃべること全部おもしろいです。感動。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody