わたしはたったいま、ありのままのこのわたしを愛している?
わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいている?
わたしはたったいま、どんなものを内にためこんで与えないようにしている?


この3つの質問につねに立ち返ろうと思うようになりました。



内側と外側をパッと無くし、私がいないことだけを痛感する その12


接地(せっち)


地というのは大地のことです。大地は地球の地面だけを意味しません。
そこから生まれた生き物すべて、わたしたちの肉体まるごと大地の一部です。


わたしたちは大地を食べて、大地に育まれて、大地に還ります。
肉体は大地に属しています。


嵐のように涙を流し、地震のごとくガタガタ震え、雷のごとく怒り、太陽が晴れ渡るように笑います。


この肉体を水の中につけて呼吸の限界まできて引き戻すと、意思とは無関係に息を貪ることになりますよね。生きている体には生きている大地のリズムがあります。


頭の声の命令は受けません。
頭の声は逆に養われているため活動できる立場です。


地とはこの体に宿る大地のリズムです。


接地は、その地に、触れるか触れないかぎりぎりのところ、丁寧に肉体感覚と調和する比喩として使ってみました。


頭がつくらなくても、先に地はあり、それにゆだねることもできますし、無視しようとすることもできます。


足を変に曲げていることに気づかず、しびれることがありますよね。


肉体感覚に注意を払っていなかったため、不自然な体勢であることに気づかないとそうなります。


既にある肉体感覚に注意を払っていなかったから、接地のラインを越えて肉体に過度に負担をかけて調和を失います。


これが人間モードなんです。


調和を失っている状態、既にある調和のラインを越えて、思い込み側にシフトしている「変な負担のかかった状態」それが人間モードなんです。


自然ではなく、自然のラインを鈍くて知らずに踏み越していたというあり方です。


ですから、これを空間モードに転換するというのは、調和のラインに戻す、自然に戻すことなんです。


思い込みとは何かと言えば、ワイパーの動き=自分の動き、
ワイパー(思考・感情・肉体)=自分


という拡大された視覚です。
実際には、ワイパーだけではなくその奥に道路は見えています。
両方見えているんです。


ワイパーがあっていけないこともありません。
ただワイパーとハンドルは連動しているに決まっているという思い込みは、車を常にふらふらにします。


この思い込みは客観的に見れたり、気づける状態ではありません。
自分では、気づかないんです。どうしても気づけません。


それ以外の運転方法があるなどとは思ってもいないんです。


わたしたちが忘れたものは実はすごく単純なものです。


道路ってなんでしょう?いまこの瞬間に見えているはずのもの。


ワイパーが思考や感情なら、道路ってなんでしょうか。


それは、思考Aと思考Bの隙間(空白)です。
考える者Aと考える者Bの隙間(空白)です。


この空白の上をワイパーがびゅんびゅん通ります。


反射的にワイパーを追ってしまうのは、私=肉体だと思い込んでいるからです。
私=思考を発生させた主体
私=感情を発生させた主体
これらの思い込みがあるため
「ワイパーを追うことこそ正しい個人のあり方だと思い込んで」います。


誰もこの空白に注意を払っていません。
いま見えていますが注意していません。


ここです。
誰も、この空白に、とどまろうとしていません。


空白に「とどまる」ことが調和した接地ライン、自然なあり方だとは想像もしていないんです。


明日につづきます。






わたしがバーソロミュー好きなのは、本当にやさしくて本当につよい男だからなんです。
彼から愛以外のものを感じたことはありません。


もちろんわたしは似ても似つかない人間なんですが、大いなる愛の光のために、一歩一歩歩もうというこの認識にいま辿りついたことに、導いてくださったみなさんに感謝しています。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。

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