新規コメントについて 2014年末まで
非公開にしてみます。一時的に何かnobodyに直接ご意見があったり、伝えてくださりたいことがあった場合に誰の目にも触れないようにします。この必要性がわたしの勘違いだったら恥ずかしいんですが。
もちろん名前欄を空欄にして本文のみ記載する匿名投稿でもかまいませんし、削除希望なら読んだらすぐ消します。来年からは普段どおりに戻すつもりです。
返信方法などはご指示いただけると嬉しいです。
そもそもなんで承認なしにしていたかと言うと、コメントの内容で判定かけられている気がするのはコメントくださった方が嫌な気分になるかもと思ったからです。
このブログのフォーマットでは投稿時に公開・非公開を選べないんですよね。
ですので何かある方は年末まででしたら、いつも以上にお気軽におっしゃっていただければ嬉しいです。最近記事がぜんぜんおもしろくないよー、でもいいです。こんな日記を訪れて読んでくださっているだけで感謝しています。
型と水と光
構造は分かれています。型が最初はあるように見えるんですが、すべての型を満たせる水があることに気づきます。
ところがそれはすべて別のものに支えられていることがわかります。それが光です。
光という単語を使うのは適切だからではなく、どうやっても表現が不可能だからです。
型も、より柔軟な水もあるがまま「あらしめる」それが光です。
闇があるなら、闇を「可能にする」それが光です。
一般的な闇の対義語の光ではなく、闇さえ邪魔しない透明な光です。
顕現がこういう顕現であることを「可能にしている」非顕現は常に実在しています。
言葉も論理も、ありとあらゆるものがそれに触れることはできません。
つまり永遠の放置状態です。
この光が存在している意味を、人間が自己都合で解釈するとするなら、解釈は無限です。
言葉の綾ではなく、本当に無限です。
ですから、新概念は永遠に生まれ続けます。
ワイパーは新しく生み出し続けることが可能です。
道路は変わりません。
道路とはなんであるかは定義できません。
無限を可能にしてしまうのが道路だからです。
具体的に、光を見出す方法はあるでしょうか。
それは型と水をやめることです。
型を見ることをやめ、水を見ることをやめます。
残るものが光です。最後に残るのが本当のもの、というシンプルな理屈です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody