真我がスクリーンのようなものだというのはよく使われる比喩です。
スクリーンはその上に映される映像と質が違いますので、スクリーンか映像か、この2種類しかありません。


実在はスクリーンのみです。でも映像も、スクリーンによって実在性を分け与えられているため実在です。


もちろん映像は一時的で、すべて過ぎ去ります。でも「過ぎ去るまでは実在です」。


心臓という臓器に関する知識が、
それは区分的には「(真我というスクリーンに対し)映像にすぎないから」という理由で重要性を失うことはありません。


まったく同じことが
霊魂という臓器にも言えるわけです。


霊魂の場合は、心臓とは重要性がまったく違います。
心臓は今回の人生に限ったものですが、霊魂は複数の人生に跨る主体です。
科学的に証明されていないという立場をとる方はそれでいいんです。


もし霊魂の移動・学習の継続を信じる方ならば(研究されている現時点でのデータを含めて)、
人生における価値観は信じない方とは大きく異なります。


これがですね、実質的に霊性の分野を二分する境界線になっているそうです。


霊魂(70億の個別の霊魂)を信じている派
信じていない派(真我に集中し細かい映像の構造は取り上げない)


どちらがいいとか、どちらがうんぬんという話ではまったくありません。
単純に、二分されていて、この二つの派閥は、持っている情報と、行動指針が異なるということを理解しておいて損はないということです。



この二つの派閥は途中までの結論は同じなんです。
1、真我(スクリーン)実現(無知消滅)を最優先とする


という結論です。
なぜなら、真実は、真我しかない、すべては真我であるからです。


それを思い出す前に、映像にとらわれて重箱の隅をつついてしまうとスクリーンの存在を見失ってしまい、すべてはスクリーンであることを忘れたまま彷徨います。


でも思い出した後は、「私」がいなくて「スクリーン」(潜在的可能性)のみがあると気づきます。


そしてそのスクリーンが可能にしている「映像」の中には、
一回一回の人生を超える地平、魂の成長という地平があることに気づきます。
人生は偶発的なものではなく、目的をともなった輪廻転生です。
スクリーンが愛そのものなら、その映像の中の主体も「完全な愛を顕現させるべく自ら学び自ら顕しつづけている存在」であることに気づきます。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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