改めて「S(気づいている意識)」について書きます。


(一年以上経過して、今の私の考えを追記します。気づいている意識とは万人に天与のもので努力や練習の必要は本来ありません。ただし、大抵の場合それが自我の従属的立場に置かれて忘れさられてしまっているので、思い出す、本来の主体としての立場に戻るための反復実践は実際必要です。これをやらなくても他の道はありますが、遠回りになると思います。どのような霊性の道(故郷への回帰の道)を通ろうとも、あなたは二人いると思っていただいたほうが現状を正確に理解できます。一人がエゴ(記憶を今この瞬間に持ち込んだときに発生する断続的な瞬間意識)、もう一人が本物です。本物は目に見えません、耳に聞こえません、手で触れません、いまにのみいます。そしていまにのみ気づいています。エゴは自分が一人の人格として実在すると錯覚を抱いていますが本当に錯覚です。本物のあなたは継ぎ目のない存在、ひとつです。ただし、個別の魂(この日記で言う星)は実在するので誤解しないでください。究極の虚空はあなたです。ですが、その中間に、魂としてのあなたも実在し、肉体が死亡するとあの世に戻ります。そしてやるべきことが終わっていないときは、この惑星に転生を繰り返すことになるというファンタジーにしか思えないような話が現実です。それを思い出すために反復実践をするにあたり、いまこの瞬間のあらゆることに「自然に」「自動的に」気づいている存在にあなたは意識の焦点を当て、そこに留まろうとします。ですが、強調しておかなければならないのは、特に、思考と感情だけはまったく逃さない視点でなければなりません。思考と感情をゆるく見逃してしまう隙や癖があると、空転する状況に陥ります。思考の内容を一文字も逃さずに、という意味ではありません。あ、思考が来たな、通過したな、静寂に戻ったな、というぐらいの「感じる」状態を維持していなければならないということです)


Sとはどういう状態なのか?が第一です。


Sとは
『五感・思考・感情・その他、今この瞬間にあるもの全てをありのまま気づいている状態』
です。


直線的時間軸で表現すると1秒後ではなく意識が0秒にとどまり続けている状態です。


この時「意識の焦点」がどこかに向けられていると「それ以外」の感知が遅れます。
その「感知の遅れや意識の矢印すらありのままに気づいている状態」がSです。


つまり、今この瞬間に頭蓋骨の中に「思考」があっても構いません。
今、どんなものがこの瞬間の中に含まれていてもいいんです。
意識の矢印がどういう方向に向いていてもOKです(今までと違う切り口で今夜は説明します)。
何でもOKですから、
それら「全てに気づいている」
今この瞬間「ありのままの0秒に気づいている」
今この瞬間の「動きの全てに裏から気づいている背景」
気づいている空間とぴったり重なる「あり方」なんです。


私たちは普段これをやっていません。実行していません。こういうあり方ではありません。
何をやっているかというと
「ありのままの瞬間を一部カットしている」のです。
視覚も、聴覚も、思考も、感情も、全て一部ずつ「無意識に」カットしているため、
瞬間の本当の姿を体験していません。
無意識と自我のパターンに丸投げしているのです。


なぜか?


私たちは自分が「肉体のみ」であるという自己像を持っているからであり、
「直線的な時間軸」が実在すると思い込んでいるからであり、
「重要な出来事」と「重要でない出来事」、
「重要な瞬間」と「重要でない瞬間」を分離する観念のフィルターを持ち、
「今この瞬間」より「未来の特定の瞬間」に備えようとするあり方でいるからです。


これらのあり方は
「今この瞬間を無意識の中の記憶パターンにゆだね省略する(見くびってしまう)あり方」であり、


「今この瞬間に記憶を持ち込み断続的な自我を発生させて自我が自我を防衛するパターンに奔走するあり方」です。


自我は常に怖がっているからです。何が怖いのか。一人ぼっちが、怖いのです。
これは子供がもつようなかわいらしい取るに足りない恐怖ではなく、根源的な「神との分離の錯覚」の恐怖であり、洒落になるような恐怖ではありません。肝試しのような次元ではなく「一人ぼっちかも知れない」という思い込みは本当に自我にとって絶叫するほど怖いのです。


これを癒す方法は一つだけです。
神とは「わたし」そのものであり、どこにも分離はなく、みんなとずっと一緒であることに気づくことです。自我は死ぬ必要はありません。共に悟れます。
自我が悟った瞬間にからっぽであることに気づいても自我は消えません。
第一に家族なのです。大事な機能も持っています。
自我を敵と誤認しないでください。
nobodyはこの点の強調に注意しています。


「記憶パターン=世界観」によって、「今この瞬間」に本当のパワーがあることを見過ごしてしまう
「人参を前方に吊るされた馬」と同じようなトラップにはまって走っています。

0秒の気づきに忠実なあり方ではないのです。
私たちは「私は既に知っている」と思い込みながら「今この瞬間」と向き合っているのです。


瞬間が「常に新しい」ことを認めることができるのなら、
「既に知っている」という態度が思い込みに過ぎないことも認めることができるはずです。


私たちは今この瞬間を「何も知らない」のです。
「ただ気づいている」のです。


指標をいくつか取り上げます。
まず「呼吸」を意識的に見ていません。吸っている、吐いている動きを見ていません。

呼吸は無意識にまかせっきりです。確かにそれで生活可能ですが、呼吸を見ていないということは
「肉体の感覚」のほとんど全てに無意識だということです。


歩く時の一歩一歩の足の裏の感触に注意を払っていません。
なぜか。「私は歩き方を知っている」と思い込んでいるからです。
無意識の歩行記憶パターンに丸投げしているのです。


周囲の自然音に注意を払っていません。
なぜか。「私は重要な音が会話の中か危険を知らせる音の中にしかないことを知っている」と思い込んでいるからです。


頭蓋骨内の思考に注意を払っていません。
なぜか。「私は思考そのものである」または
「思考を発生させた主体こそ私そのものである」と思い込んでいるからです。
それはつまり、私そのものなのだからセキュリティチェックは不要だと思い込んでいるのです。


主に胸の部位に感じられる感情に注意を払っていません。
なぜか。「私は感情そのものである」または
「感情を発生させた主体こそ私そのものである」と思い込んでいるからです。
それはつまり、心の痛みや苦しみに似た感覚が発生しているのは、私そのものが痛んでいる、苦しんでいる非常事態だとそのまま解釈することであり、影に感じられる感情の全てに反射的に防衛または逃避をするパターンを生みます。


くどい書き方になっているかも知れませんが、重要です。
私たちは「世界観の奴隷」としてのあり方を無意識に生きてしまっているのです。

どうすればよいのかは非常に簡単です。
今この瞬間の全てに気づいている位置に立てばいいのです。


それはおそらく最初は「脳内の中心付近」から「前方を見る」感覚になるのではないかと思います。
鼻が視界の隅に見えますよね。
そして「脳内の中心付近」から「音を聞く」感覚にもなると思います。
もちろんこういう感覚がなくても構いません。頭蓋骨の中を見張る感覚でもOKですし、何でもOKです。
それが段々下に降りていきます。
胸を中心とするようにセンタリングが変わり始めるのです。
そこに今まで味わったことのないような種類の熱源を感知し始めるからです。
感情?とも少し違うような感覚です。ただ熱を感じるのです。
だんだん「満ち足りている」という感覚に変わり始めます。
感じたり、まったく感じられなかったり、色々変化しますが、全部そのまま気づいている位置に立ち続けます。それだけでいいのです。


一瞬、言葉が浮かんだり、イメージが浮かびます。
訓練前と違ってあなたはその思考発生に非常に敏感になっています。
「あ!思考だ!」
内容の詳細はわかりませんが、思考が発生する瞬間や巻き込まれる感覚に異常に敏感なのです。


そして、そのたびにセンタリングを調整する習慣がついています。
音が聞こえるかな、呼吸を見ているかな、今この瞬間には他に何があるだろう?
これがS移動です。


そして、「平等に気づいている立ち位置」で日常に戻っていきます。
思考が大抵の場合すぐ消える対象であることも気づきます。
思考に余計なエネルギーを食べさせないために、思考があまり増えなくなるのです。
最終的に一日の90%の時間何も思考が浮かばず、常に
「脳内の中心付近から前方を見る」あり方に変化したことに気づき
定着したと自分で認めます。
(一年以上経過したので追記します。思考観察視点または無思考視点の「定着」というのは、これから始める方に誤解を生む隙のある語彙で私はあまり好ましい言葉だと思っていません。ただ、それまでは思考発生や通過そしてそれ以外の無思考に対して意識的に注意しなければ維持できなかった状態が、意識しなくても通常状態になること、より正確に言うと、それが本来の通常状態であったことを思い出すこと、その転換点は確かにやって来ます。これを目指せばいいだけです)



今日もありがとうございました。
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