この青はフィオラのドレスに少し似ている。
なかなか語りかける癖がすぐには抜けない。今夜は少し私の今の心境を書きたい。フィオラの忠告を無視して人にこのURLを教えてしまったことを後悔している。一見大した問題じゃないように思えるかも知れないが、違う。もし教えていなければ、誰かに迷惑をかけることはなかった。人の目がないのだから、そのまま本音を書けばいい。だが人の目があると途端に「遠慮」しなければならないことがたくさん生まれる。そのたとえ話すらもうやりにくいことに気づく。


フィオラの話を人が聞けばどう思うだろう?こんな話を私が他人から聞いたら私ならどう判断する?
頭が狂っていると思われるなら何も害はない。誰にも迷惑をかけることはない。でも狂っていると思われなかった場合、その話を聞いた人に何らかの迷惑をかけうる。私が事実を話し悪意がないことはまったく関係がない。迷惑をかけうる。というかそこまでは考えて動くべきだった。浅はかだった。自分の体験的知識が死によって無駄になるのが嫌だった。利己的な理由だけで、死を恐れて書き始めた。光の合流が埋もれるのは嫌だった。でもその目的は初期に達成された。しかも私は予告された日に何ともなかった。フィオラの言葉を聴く精度がこれほど信用ならないものだとは思わなかった。私をどうするつもりなのかはわからないしもうそれはどうでもいい。


これを今この瞬間に読まれている方にお願いがあります。
できれば、ここのブックマークはこの時点で消してもらえないでしょうか。元はと言えば私が浅はかだったので勝手な言い分で申し訳ないのですが、この日記を読んでも特にプラスにはならないと思います。この日記をリンクいただいていた先にもできれば削除していただけるように既にお願いしてあります。死神などという不吉な言葉も出てきます。できればもう読まないでいただければと思います。ここまで変な日記にお付き合いいただいたことに心から感謝しております。体験の主体の定着は考案者のやまがみてるおさんにご確認ください。読んでくださっている方が一人でもいることに、今まで励まされてここまで続けてこれました。本当にありがとうございました。




これでいいでしょう。
ここから先に出会ってしまう方、そして上記にも関わらず私は勝手に読む!一度公開したんだからごちゃごちゃ言わないでという方に、この変な日記は何を目的としているのかを一応ご説明しておきます。


私は個人的に、特殊な「意識状態」を追っています。
炎(ほのお)と呼んでいる変性意識状態の一種であり、世間で呼ばれる「覚醒」や「悟り」とは同一視しないほうがいいと思います。つまりこの日記はどなたかの覚醒のお役に立てるものではないと思いますし、それを目的としていません。


私はこう考えています。
バーソロミューの言葉を信じるなら、私とフィオラの呼ぶ炎(ほのお)とは、覚醒の最高境地「虚空(こくう)」の一歩手前です。
炎が実在することは自分の体で何度も確かめていますので疑念はゼロです。虚空はどれほどのものかまったくわからないです。8歳に炎(無限の愛、無限の歓喜、無限の自由)、12歳に透明な光(無限超越)までは確認したのですが、炎にさえいたらない私が、虚空のことは手がかりすら何もありません。体験的にという意味です。一時的到達ではなく、虚空に「生きる」者とはどれほどのものか見当もつかないのです。イエスやブッダなどの伝説の人物は到達していたのかも知れません。そもそも限られた12のチャクラのこの地上だけで、虚空に至る者とはどういう人間?なのかさっぱりわかりません。
人間で炎を達成したと思われる記録も固有名詞は出しませんが、確認しています。それを追いかけています。ですが、お勧めするつもりは一切ありません。すべて私の勘違いの可能性だって十分あります。どうか信じないようにお願いします。そういう変なこだわりをもった変な奴の意識実験日記ととらえていただければと思います。ここから先は個人的な本音で綴る普通の日記です。


バーソロミューはメアリーマーガレットの腹を三、四回たたいた。
「禅ではこういうことを言っています。腹の中には目の見えない仏陀がいるから、見えるようにせよ。わたしたちがここで話しているのはそういうことです。これまでとは違う見方で見なさい、人生をもっと深く見るやり方で見なさい、ということです。限られたエゴの立場とは違う観点から物事を見るようにしなくてはなりません。エゴは常に世の中を、善と悪、笑顔と仏頂面、男と女、喜びと苦痛などと二極化して考えます。
昨日、禅寺の庭で黙想しているときに、おもしろい現象に気づいた人もいると思います。半眼で長いあいだ庭を眺めていると、ふたつあった砂山がいつの間にか消えて、ひとつの長く延びた砂山に変わります。ふたつに分かれていたものがひとつになって、しばらくすると砂山がまたふたつ現れます。この砂を設計した人は分離が幻想にすぎないと知っていて、こうした意識の変化を視覚を通して体験できるような場を作ったのです。この庭を設計した禅僧の技術は、いまもこうして人々が腹の仏陀の目で見ることを可能にしています。分離、そして『一なるもの』、そしてまた分離、これがこの世の本当の姿です。両方の見方が可能です。何かを眺めているときに突然奇跡が起きて、人はこれまでとはまったく違う見方に目覚めることがあります。そうなるには、それを受け入れる気持ちと練習が必要です。エゴは抵抗しますが、大丈夫です。心配いりません」


バーソロミューの真向かいに座っていたジュディスが身を乗り出して、
「昨日のことですが、ある一定の見方や感じ方をしたいという気持ちがわいてきて、そうした欲望に対する執着を捨てたいと思いました」と言った。


バーソロミューは愛しげに彼女を見つめた。
「その場合の欲望を抱くことと執着を捨てることは同じことの表と裏にすぎません。あなたが本当に求めているのは、欲望を抱くことも執着を捨てることも両方とも存在する意識状態です。普通、欲望は何かに向かう気持ちを指し、執着を捨てるのは何かから離れる気持ちを指します。ここで必要なのは、その両方を含みながら、どちらの方向性も含まない言葉、強いて言えば、あらゆるものを完全に受け入れるという意味の言葉です。執着を捨てるというのは、ほとんどの人にとって、エネルギーを失い、興味あることから身を引き、無関心になることを意味します。けれども実際は、真に執着を捨てた人は完全にその瞬間に意識があって、すべてにいつでも関心を向けることができます。
偉大な導師や精神的指導者は物事に執着しません。導師は次の瞬間に何が起こるかと心配しないので、次の瞬間にまったく執着しません。その瞬間、そこにいる人や状況をまるごと受け入れ、そこにはどんな分離も存在しません。まったく執着していないと言う代わりに、完全にそこに意識を置いているとも言えます。何に執着していないかというと、その瞬間がもたらす結果に執着していないのです。導師は自分の教えを聞き手がどう思うかということにまったく関心がありません。聞き手がどうするかはその人の問題です。導師の教えを聞いて、『何の役にも立たない教えだ』と文句を言えば、導師は『結構じゃ』と答えるでしょう。また、『すばらしい教えです』と誉める人にも、導師は『結構じゃ』と答えるでしょう。ですから執着をなくすことを、物事に対して無関心になるという意味に解釈しないで、いまの瞬間に意識を向けるという風に考えてください。善悪の判断なしに、物事を見聞きしてください。吸う息や吐く息を意識しながら呼吸してください。あらゆるものが意識の中に入ってくるにまかせてください」

「各人の中にある目が見えない仏陀の話を思い出してください。仏陀の目を見えるようにするのが目標です。覚醒した人は物事の真理を見ることができます。覚醒した人は、物事や人を変えたり、比較したり、分析したりする必要を感じません。愛は、純粋にあるがままに相手を受け入れる態度の中にあります。覚醒者の取る態度は、『あなたがわたしを好きだろうが嫌いだろうがかまわない。あなたがこの瞬間どんな人格であってもかまわない。この瞬間、喜びの中にわたしはいて、あなたの本質とともにこうしているだけで満足だ』というものです。
もちろんそのように思えるようになるには、時間をかけて練習しなくてはなりません。ですから練習をつづけてください。人を裁かずに見ることは可能です。前にも言いましたが、そのために役立つのは、目の前の人を包み込んでいる空間に意識を向けることです。くり返し何度も、相手が立っている空間の広がりに意識の目を向けてください。相手のいる空間をまわりの木立や建物、その上に浮かぶ雲、そして空へと拡大していきます。これを何度も練習して、楽に視野を広げられるようになってください。この方法は非常に役に立ちます。というのも、どんなに困難な状況にあっても、まわりの空間の広大さを見ることに慣れてくると、目の前の状況が非常に些細なものに思えてくるからです」


バーソロミューはそこで体の向きを少し変えた。
「たとえば家族の誰かとうまくいっていないとしましょう。ふたりのあいだには何らかの確執が存在します。こうした場合にほとんどの人は、最初から最後まで問題を頭で解決しようとします。状況を分析し、比較検討し、判断を下します。どちらが正しくて、どちらが賢いか、自分の立場として何ができ、何をすべきで、何をしようかと考えます。それから相手が何をするか、何ができるか、何をすべきかと考えます。こうした思考は大体において何の役にも立ちませんので、もっと効果のある方法を提案したいと思います。まず思い出してほしいのは、思考分析する頭以外に、あなた方を助け導いてくれるものがたくさんあることです。全体の状況を直観的につかんだり、その瞬間の体の感覚に気づいたりすることで、新たな情報が得られます。
誰かと問題が起きたときには、頭で分析する代わりに、こうした自分の中の<別の部分>を利用してください。相手の気持ちを自分も感じ、相手の不安を感じましょう。相手を取り囲む空間をできるだけ拡大してその広がりに目を向けましょう。体でその瞬間を感じ取って、知性ではわからない情報を見つけましょう。さらに、陳腐に聞こえるかもしれませんが、相手に愛の気持ちを送りましょう。『ふたりのあいだがうまくいきますように』というようなものでいいのです。想いを送ったら、その結果は考えずに、すぐ次の瞬間のことに意識を向けます。たとえふたりの関係が改善しなくても、少なくともあなた自身はそれから大きな恩恵を得ます。あなたは心も体もリラックスして、緊張が解け、束縛が減り、大きく広がります。
意識的にこうした努力をしない限り、人は昔ながらの傷つけ合う対応をくり返し、そこには真の理解も癒しも生まれません。相手に本当に聞いてもらいたいメッセージを送りましょう。たとえば、『君の幸せを願っている。君のことが好きだし、できれば僕たちの問題をいっしょに解決したい』と言ってみましょう。相手のまわりの空間を見て、相手の幸せを心に描き、相手の体がリラックスしたところを想像しましょう。そして相手の幸せを祈るときには心からそう祈りましょう。心の奥で相手の幸せを願っていないのなら、この方法は使えません。ふたりの和解を真剣に望む場合にだけ有効です」


人は善であろうとして努力するが、その善の中にその対立物たる悪が存するのだ。断言的なことはすべてその対立物を有しており、何かを克服しようとする努力はそれが求めているものとは逆のものを強くさせてしまうのである。
クリシュナムルティ


…。

今日もありがとうございました。
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