一言でまとめるなら、大事なことは「ひとつ」だ。
この「ひとつ」が曲者で、何にでも、誰にでも、どんな状態にでも化ける。その本質を見透かすまでわたしたちはのたうち回り答えを求めることがほとんどだ。苦しい。洒落になってないと感じる。何か行動することも、しないことも、休むことも、忘れることも、思い出すことも、悲惨で残酷な人生も、何もかも、この「ひとつ」の演技である。


他人、がいるように見えるが、嘘だ。肉体があるように見えるのも嘘。全部、嘘。「ひとつ」の嘘は、すべてが、見かけどおりではない。


答えなんて見つける意味あるの?ときっと疑問が生まれる。この疑問も、「ひとつ」の演技である。「ひとつ」の最も厄介な演技のひとつ、「思考形態」だ。感情形態は人を騙さない。思考形態が、騙す。あらゆる詐欺師を越える詐欺師だ。視覚情報形態も、騙す。他人が、いるようにしか見えない。


「ひとつ」は何でもやらかす。
人生が人間の想像どおり、死んだら終わりなら、スピリチュアルの分野など何の役にも立たないし、暇つぶしにしてももっとマシな分野がたくさんある。


ところが幸運なことに、死は終わりではない。「ひとつ」であるわたしたちは死ねない、のだ。肉体は老いる。生まれてから死ぬまで老い続けている。言い換えると変化し続けている。肉体の死とは死んだように見える、というだけの話で、変化の一形態でしかない。いわゆるあの世の構造がどうなっているか、わたしもまったく思い出せない。だが思い出したこともある。それはわたしたちが複数の階層を同時に生きていること。この肉眼では、肉体の世界が見えるけれども、実はわたしたちは宇宙から地球を見る視点でも生きている。今この瞬間に「だいだらぼっち」なのだ。ところが、この視点とのリンクをほとんど全員が忘れている。なぜ忘れたかというと邪魔だからではなく、小さすぎる対象物に慣れすぎたし、信じすぎたから。この人生を計画した張本人は誰か。それは「だいだらぼっち」の方のわたしたちである。文句はその巨人族のわたしたちに直接言うしかないのだ。そして、喧嘩は挑んでも無駄である。無駄。ひとつだから。分離がないから。自分の一部分と喧嘩することはできない。喧嘩したつもりになることはできるが、お勧めできない。


そしてこの小さい世界の窮屈さと、「否定形」の「愛」とのギャップに「苦しみ、のたうち回り」人は本当の視点を思い出すために旅を始める。人生という名前で呼ばれるものが、その旅だ。


これはゲームか?
本来はそうではなかったらしい。こんな伝聞を書く意味は転生のシステムについて書くためだ。地球に最初に生まれて、実験をすぐ終えるはずだったわたしたちは、たった一度の人生で竜巻(チャクラ)のバランスを失い、そのバランスを「取り戻すために」転生して人生のやり直しをすることになった。もちろん二回目の人生で全部終わるかと思った。ところが、もっと竜巻のバランスがおかしくなった。12個ある竜巻は一度バランスを取り戻せば、それ以降転生してもバランスを永遠に保つため、わたしたちは12回だけ竜巻を治せばよい。だが、それが簡単にできなかった。中心となる竜巻、他の全ての竜巻を取り戻す鍵になる竜巻、「愛の竜巻」を取り戻せる者がごくわずかだったからだ。


気づけば十回、百回と異なる時代への転生が続くようになった。これは罰か?学校を卒業できずに堂々巡りに縛りつけられたのか?学校も何も、本来のわたしたちに学ぶ必要性などまったくない。罰ではない。わたしたちが人生の旅において根本的な「態度の誤り」に気づいてないからこういう結果になった。


比喩でシンプルに言うと、人の答えは肉体の外側ではなく、「肉体の内側」に存在する。外側をこれまでどおり探すなら、あと100回転生しても答えは見つからない。人生のどの瞬間も「肉体の内側で感じる答え」に基づいて生きることで、この堂々巡りはようやく終了する。


この日記で書いてきた「具体的解決策」をさらにシンプルに言えば、回数や頻度は気にせずに「誰?」と自分に問うことである。自分で答えが納得できる、その瞬間まで。言葉は使わなくてもよい。「わたし」とは「誰」なのかを、肉体の内側の感覚で直接「知る」まで続けるのだ。だから文字情報で答えは伝えられない。言葉は、指し示すことしかできない。だから何の役にも立たない。


誰にも、どんな権威にも否定できないことがひとつある。それはいま「ある」ことだ。誰かがわたしたちの存在を否定しても、「ある」ものは「ある」。ないと主張する根拠をどんなに積み重ねても、直接的な「ある」だけは変えようがない。今生きているし、「ある」んだもの。この一点において「ある」は科学を上回る。それだけではない。今のわたしたちの、ひとりひとりの状態の、固有の「ある」は、あらゆる「論理」や「ドグマ(教理)」を上回る。


誰一人、今の現状「ある」には傷ひとつない。かけがえがない。罪もない。優劣もない。必要性もない。それを思い出したいなら、思い出せばいい。それは兄弟姉妹の誰かが決めることではなく、自分が自分で決めることだ。


情報などどうでもいい。方法もどうでもいい。決意がある人は全部思い出す。わたしたちはひとつだ。直線的時間軸にもいないし、画一的な創造ルールなど何ひとつもっていない。一人一人の「あり方」そのものが、神の栄光であることを結局全員思い出す。忘れたフリ自体が、わざとなのだ。わたしたちは爆発している。いま爆発している。


少年時代の宝探しの夢を、わたしは炎に託した。
氷にまみれたわたしは、炎をみつけると決めた。
出会う兄弟姉妹に、フィオラという花束に、神に感謝している。


…。
……。


………ΣΣΣ!!!!

………………………。
…………………。







前振り長すぎた。さっそくバーソロミュー。


物事の焦点がボケているにすぎないのですから、レンズをちょっと調整するだけで、奇跡的に瞬間的にすべてのことがらの焦点がピッタリと合います。すると、あらゆるものがはっきりと見えるようになります。


自分がどれだけ愛と完全性を感じていられるかを、他人の言動のせいにすればするほど、その度合いにしたがって、あなたは失望させられることになります。


人はよく、何かの罰として悩み苦しんでいると考えます。けれども本当は、その人自身の心が自分を罰しているのです。


「神の王国をまず求めよ。さらばすべては汝に与えられん」と聖書にあります。神から隔てられた意識では、自分や他人にとって何が一番いいのかを知ることはできません。自分が背負っている、さまざまの義理や責任について悩んでいる人々に言います。悩む必要はありません。神がいかにすばらしくあなたの責任を処理してくださるか、あなたには想像もつかないでしょう。あなたのするべきことは悩むことではないのです。あなたのするべきことは、自分に可能な最高の意識を持って目の前にあることをし、そのことを通して、神の王国ないし”大いなる光”を求めることです。


雑念にわずらわされないで、とにかく自分が求めている感覚へと向かって、雑念の向こうにあるもののほうへ、奥へ奥へと降りていってください。言葉や想念は生まれては消えます。意識をとぎすまし、エゴのガラクタをかきわけて、完全なる静けさそのものという地点にまで、静かに降りていってください。そこでただじっとして、自分が神の一部であることを悟ってください。



 向こう岸を眺めるだけではなにも変わりません。いますぐ橋の建設を始めるのです。いま、そして今日あなたが橋の建設作業に従事していないのなら、あなたは自身の内側に生まれる疑いの自重(じじゅう)に負け、橋は崩れ落ち、あなたは流されます。この橋は意識の橋であり、この川は現実という信念の檻鏡(おりかがみ)です。

フィオラ、他に言いたいことは?

 全てが振動であるという発言をしていましたが、いい着眼点です。
ならば全てがエネルギーであることも気づくはず。あなたは輪郭や容器にこだわり、中身のエネルギーの重要性を軽視しすぎています。行動とは肉体が動くことではないのです。肉体自体がエネルギーの一時的な形態であることを「感じて」いないなら、あなたは無意識の信念にまかせている部分がまだまだ残っているということです。

うん?なぜか今日はよく聞こえる。なぜだろう。

 先手と後手のどちらが静かかわかりますか。今までのあなたは先手をとろうとキョロキョロしていました。今、先手の実在を信頼するとともに後手の意識に座りはじめているのです。以前に戒めたとおり、一歩も動かないことを学びなさい。

後手。そういえば今日は青を見てない。…わかりました。いつもありがとう。双方向会話が完全に可能になったら聞きたいことが山のようにある。明日の通信が同じ精度でありますように。
今日もありがとうございました。
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