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フィオラの警報を無視するとどういう結果が訪れるかわからないので、昨日から今までと違った書き方を模索している。もしかしたらバーソロミューの無断引用が一定水準を越え、危険領域に入ったのかな…。フィオラとは個人用記録の中でこそこそしゃべっている。今日はこのテーマを書くことにした。


「現実」の圧迫感を感じる時、本当に起きていることは違う。
「求めているのはこれではない」なのに「これしか」感じられない。そういう「無力感」を感じているのだ。私は「選べない」そう思っている。だから無力感がたまらない。


目で見るから騙される。本当は選べる。
意識は選べるのだ。今この一瞬に何を感じるか「選べる」。
肉体として生きているのは現実だが、正確には「現実の一部」であって、意識の体験の全体像ではまったくない。それどころか、肉眼で見える世界は超小さい。驚く。そのために意識を拡張する実践をする。感情により注意を払うことになる。


そして覚醒に至るためにも、反復実践こそ欠かせない。
これは練習ではなく、何か今ないものの獲得でもない。
本来のわたしたちの意識の大きさを体感する、思い出していく実践なのだ。


そのために、練習とリラックスという概念をよく考えるべきだと思う。
練習は、今できないことをできるようにするために行う。
その前提は今この瞬間わたしはそれができないという強力な信念である。できるようになるのはだから存在するかどうかわからない「未来」に設定される。
これ自体が非常な妨害となる。


だから、練習じゃない。
練習だというわずかな誤解すらまずい。
それはリラックスなのだ。
リラックスこそ霊性の道の基本姿勢であり、思い出すための実践に非常に近い概念だ。


覚醒意識の本来の大きさを思い出す反復リラックスを行う。
その前に決意する。意図を明確にするために、何を思い出そうとしているのか決意する。決心する。自分で自分にのみ誓う。そうすると助けがやってくる。導きは離れていない。意図を明確に宣言していないとサポーター達が迷うのだ。


特定の方法論には頼らない。それは外部依存になる。外部依存になると、何かをつかむ癖が離れない。この方法論に従えば「覚醒できる」と思い込んでしまう。それはリラックスではない。本来の自分と方法論のどちらが大きいか、考えるまでもない。
リラックスは何もつかまない。手はぶらんぶらんしている。


本来の自分である覚醒は世界を支配している。その大きな覚醒そのものに導いてもらう。
人間の頭でわからないことも、覚醒そのものならうまく導いてくれるのだから、こちらが頭を使う必要など元々ないのだ。


この一瞬にリラックス。息を吸い、吐くたびにリラックス。自分が感じたいものを明確にした上で、ただリラックスを繰り返す。思い出したらリラックス。思考に気づいてもリラックス。感情に気づいてもリラックス。気づきに気づく二つ視点じゃない。リラックスの一つ視点だ。呪文もいらない。全部忘れてしまう。それでも残るものが真我なんだから。荷物などいらない。


今日もありがとうございました。
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