「炎(ほのお)」の体験からとったメモの中に「全肯定」という文字がある。

全肯定。
全てに…イエス!

魔法の処方箋も、宇宙の気持ちも、どんな存在のあり方も、イエス!

これが真実であって、「部分的にノー!」というのは人間の「妄想」であり推測に基づいた「怖れ」にすぎない。

イエスマンという映画は、テーマとしてはかなり真実に近かった。
より正確に表現するとすれば「ノー」すら「イエス」なのだ。
内面の感情も、風景も、たとえそれが陰っぽく感じられても、本当の自分はいつもイエスを奏でている。

いま、イエス!
自分にイエス!

そこから愛がはじまる。

まず自分にイエス!と言うことが順番的な鍵になる。
他人はノー!自分にイエス!から入ると、想いと裏腹に自分にもノー!と言うことになる。
他人にイエス!自分はノー!から入ると、想いと裏腹に他人にもノー!と言うことになる。
自分にイエス!それから兄弟姉妹にイエス!だ。



苦しみはメッセンジャーなのです。
「目を覚まして、何が起きているのかに気づきなさい。私は苦しみです。私がいるということは目覚めが必要ということですよ。起きなさい」
というメッセージを伝えているのです。苦しみは続けてこう言います。
「私を使って目覚めてください。ノックの音で目が覚めましたか。私が刺激しなくても、自分自身の心の内なる静寂に憩う方法に気づき、そして、安らぎを通して、愛を求める方法に気づくことができませんか。私はもう行ってもいいですか」

(この言葉のあまりにも大きな意味に私は長いこと気づかなかった。今日はこれを書くだけでも十分だと感じる。フィオラの呼ぶ「陰(オン)」にこれ以上の説明が必要だと思わない)



 長い付き合いの愛犬が死んだとしましょう。
あなたは隠しようもなく喪失感に襲われるでしょう。
なにを、喪失したとあなたは感じているのか。
自分だと思っているものの一部を喪失したと感じているのです。
親しいものの旅立ちに何を感じるか、
あなたがあなたを誰だと感じているのか直接的に最大のメッセージを与えてくれているのです。
ごまかしは効きません。
人間世界の体験とは、再び、統合するための体験です。
神の光をあまねく照らし、あなたがあなただと感じているもの、あなただと感じていないものの双方を取り込む旅なのです。
偶然の出会いなどというものは存在しません。

フィオラ少し質問したい。ジャングルジムの鉄のことだが、骨格や全体像を「つかもう」と頭が自動的に作用してしまうことが「感じる」ことの妨げになるのか?

 そうです。あなたは輪郭を探し、境界線を探し、そこに限界を視るのです。無限を頭脳は認識することができないからです。有限のものが、有限の縮尺をかけて何かをつかもうとすれば空はもはや空ではありません。

ざわざわ感と感情観察についても詳細を聞きたい。
ありとあらゆる苦しみや違和感や、ほんのちょっとした感情すら、神の光に至るための出会いなのか?

 感情だけではありません。あらゆる瞬間が聖なる目的をもっていることに、人間の文化があまりにも無意識なのです。導きは、神と同じく一瞬たりともあなたから離れたことがありません。だからこそいま感じているのかを問題にしているのです。

それはスパルタに感じる。

 ねばならないと感じるのはあなたの問題であり、扉です。何が扉に貼りつけられていようとも開くことが仕事です。開く決心を起こせるのは当人だけなのです。わかりますか。あなたの扉は一枚だけです。心にあり、目には映りません。

…。それ最初に言ったね?内なる信号に注意しながら、みたいに。

 人生そのものが道です。今あなたの目の前にあるもの、心にあるもの、体感する世界もろとも統合なさい。

神は時間を無駄にしない、という本当の意味は、一瞬たりとも導きは断続していないということ?

 まさにそのとおりです。その認識に至ったことを祝福します。神の計画はいま目の前に、そして心の奥にあることを忘れないでください。

…わかりました。
今日もありがとうございました。
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