金王朝の問題さえ解決すれば、韓国と北朝鮮が再統一し、統一朝鮮となることを私は隣国の国民として望んでいる。この二国が分断されていることに関して、日本に責任の一端はある。おそらくいま韓国が死ぬほど苦しんでいるのも、100年前の日本の(精神と)行動に責任の一端は、あると感じる。
いまのような責任のなすりあいではなく、未来に自立した国家と国家の関係となり、統一朝鮮の人々と隣人としての健全な関係に戻りたいと思っている。だからこそ正直言って、いまの中国共産党や、金正恩との関係を韓国の人々が性急に判断してしまいそうになっていることを残念に思っている。もしここで韓国の人々がレッドチームを選べば、もう日本とは正常な軌道に戻らない(戻らないうちに時間切れになる)かもしれない。
安倍首相は習近平を国賓とすると言ったが、この一事でも私は彼の人権感覚を一切信じない。自民が改憲草案を出した時点で日本の国民とマスコミは対処しなければならなかったと今でも感じる。n260117
四川省・成都の日中韓サミットは成果は特に何もなかった。
やはり雲南省の山桜か、もしくはこの人工太陽のことだろうか。n
中国の次世代制御可能核融合研究装置「中国還流器2号M(HL-2M)」は現在、建造が着々と進んでおり、2020年に運転開始、関連の科学実験が行われる見通しになっている。
核融合のエネルギー発生原理は太陽が発光、発熱する原理と似ており、地球上でのクリーンエネルギー模索を目的とする制御可能核融合研究装置は「人工太陽」とも呼ばれる。
HL-2Mは中国の次世代制御可能核融合研究装置で、中国核工業集団傘下の核工業西南物理研究院が請け負い、四川省(Sichuan)成都市(Chengdu)で建造を進めており、核融合コア技術研究展開の重要なプラットフォームとされている。
同研究院の段旭如(Duan Xuru)院長は「プロジェクトは現在、据え付け作業が着々と進んでおり、HL-2Mは2020年には運転に移され、関連の科学実験を開始する」との見通しを示した。
国内の同類装置に比べ、HL-2Mは、より先進的な構造と制御方式を採用、セ氏2億度のプラズマ運転が可能。同装置は中国が国際熱核融合実験炉(ITER)の関連実験・運転に参加、将来的に独自に核融合炉を設計・建造するために重要な技術面からの支持を提供する。
(c)Xinhua News/AFPBB News 2019年11月27日

国などの救済対象となった被害者だけでもおよそ5万人にも及び、世界に例をみないほど大規模な公害問題を引き起こした水俣病。その被害者である漁民たちの運動や患者たちの苦悩・希望を克明に描ききった一冊の本があります。「苦海浄土」。1950~60年代の日本の公害問題を知る上での原点ともいうべき本であるとともに、そこに込められた深い問いやメッセージの普遍性から「20世紀の世界文学」という評価も受けている名著です。
著者の石牟礼道子(1927-)はもともと一介の主婦でした。しかし自らの故郷を襲った惨禍に出会い、やむにやまれない気持ちから水俣病患者からの聞き書きを開始、「苦海浄土」を書き始めます。以来、水俣病患者や彼らにかかわる人々に寄り添い続け、全三部完結まで足かけ四十年以上、原稿用紙にして二千二百枚を越える文章を書き継ぎました。
この書は単に公害病である「水俣病」を告発するだけにとどまりません。「苦海浄土」に描かれた人々の生き方からは、「極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳」「苦しみや悲しみの底にあってなお朽ちない希望」が浮かび上がってくます。さらには、公害を生んだ近代文明の根底的な批判や、そうした近代の病を無意識裡に支えてきた私たち一人一人の「罪」についても鋭く抉り出します。この本は、単なる公害告発の書ではなく、文明論的な洞察がなされた著作でもあるのです。
石牟礼道子がとりわけこだわったのは、言葉すら発することができなくなった患者たちの「声なき声」だった。「ものをいいきらんばってん、人一倍、魂の深か子でござす」。例えばそう語られる患者の一挙手一投足に目を凝らし、彼らが本当にいいたいことに耳をすます。その結果記録されたのは、魂の奥底から照らし出されるような力強い言葉だった。
「生命の根源に対してなお加えられつつある近代産業の所業とはどのような人格としてとらえなければならないか」。そう宣言し、石牟礼は「みんながやったんです」「私の責任じゃないんです」といった責任回避の論理を徹底して否定してみせる。そういう曖昧な捉え方をしていては、今起こっている出来事の正体を見過ごしてしまう。
近代には、我々が普通に考えている人格とは違う、「化け物」のような人格があるということを見極めることが大事だと石牟礼はいう。
近代文学では通常、作者がいて作品がある、作品は作者に属するものである、と考えられます。社会的にはもちろんその通りなのですが、『苦海浄土』をめぐっては、本質的にはそれとは異なる意味があります。少なくとも石牟礼にはそう感じられていたように思われます。『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女は様々なところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。
彼女は、現代詩の枠組みを超えた新しい「詩」のつもりで書いた、と語っていました。
『苦海浄土』は、詩である、と聞くと何か違和感を覚えるかもしれません。ただ、ここでいう「詩」とは、単に文学の一形式としての「詩作品」であるだけでなく、文学の根源的な精神を表象する「詩情」の結晶である、と考えることができるのではないでしょうか。また、詩には決まった形式は存在しないということも、ここでもう一度思い出したいと思います。
ともあれ、『苦海浄土』という作品が、既存のどのジャンルにも当てはまらない、まったく新しい文学の姿と可能性を伴って現れた、二十世紀日本文学を代表する作品であり続けていることは、すでに動かせない事実となっています。
計測可能な時間のなかで、すべてのことは過ぎ去ってしまうのか。けっして過ぎ去ることのない永遠に連なることが、この世にはあるのではないか。生命は滅びる。しかし、万物の「いのち」はけっして朽ちることがないのではないか、と彼女は全編を通じて読者に問いかけてきます。
『苦海浄土』を書いているとき、どんな心境でしたかと彼女に尋ねたことがあります。しばらく沈黙してから彼女は「荘厳されているように感じました」と答えました。
荘厳の光は、苛烈な、ときに残酷なまでの苦しみを生き抜いた水俣病の患者とその家族の言葉にならない祈りによってもたらされている、それが石牟礼道子の今も続く強い実感です。
そもそも「正しい」読書方法などあるのでしょうか。文字の正しい読み方はあります。しかし、本の正しい感じ方などありません。
ただ、自分の読みが絶対だと思わないことは重要です。
本当の苦痛、苦難を抱えている人は、彼女の後ろにいるのだということを、私たちは見続けなければいけない。それが読者の役割であり、作者である石牟礼の悲願であるように思われるのです。
「苦海浄土」に描かれているのは人間だけではない。魚や貝や鳥たち…最も弱き者たちから傷つけられていくのが「水俣病」なのである。この状況を見つめるとき、人間は、自分をはるかに超えた大きな生命の一部だという厳粛な事実に気づかされる。こうした生命観を回復しなければ人は再び同じ過ちを犯してしまうかもしれないということを「苦海浄土」は教えてくれる。
僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業とはどのような人格としてとらえなければならないか。
石牟礼道子「苦海浄土」より
「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。(中略)どこに行けば、俺家の国のあるじゃろか」
「苦海浄土」は魂のリレーのように今に受け継がれている。水俣病患者であるにもかかわらず「チッソは私だった」と自分自身の内なる罪をも同時に告発しようとする緒方正人さん。言語を絶する苦しみにさらされながらも「私たちは許すことにした」と語る杉本栄子さん。「絶対に許さないから握手をするんだ」「終わりはないけど一緒に終わりのない道を歩くから握手をするんだ」といって原因企業であるチッソと対話をしようとする患者たち。そこには、憎悪の連鎖を断ち切ろうとする水俣の叡知があり「苦海浄土」の残響がはっきりと読み取れる。
「力と量によってのみ価値をはかろうとする『近代産業』の暗部に生まれた、命名し難い化け物に立ち向かうためには、人はひとりにならなければならないと石牟礼は感じている。化け物は、群集によってつくられた。群れと闘い得るのは、もう一つの群れではなく、個である、という確信がここにある。人は、群れた途端に見えなくなるものがあります。だが、ひとりでいるときには、はっきりと見える。石牟礼はそのことに気づき、ひとりで闘った。(中略)水俣病の運動で人々は、集うことはあっても群れません。それぞれの志、それぞれの立場を持って集うけれど、けっして群れない」
ネット社会の匿名性の中で、「個」を失い、思考を停止して紋切り型のレッテル貼りだけを行い、他者を切り捨て、憎悪の感情のみをひたすら煽り立てるようなことが横行する現代社会。「苦海浄土」は、私自身も陥りがちなこうした「群れることの罠」を厳しく警告しています。
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