穏やかなことに理由はいらないが穏やかではないことには理由が要る


穏やかではないことは同時に理由(妨害)があることを見ることができます。
これは義務ではなく、この世で紐解く最高のプレゼントです。


レスターの物語を載せましたが、彼のすごいところは不幸の塊のような自分に向き合ったところです。モルヒネを飲むのは後でいい。いまは向き合おう。


他人や外側に向き合うのはみんな得意です。
自分の内側の不幸の根源に向き合うのはみんな苦手なのではないでしょうか。


気に食わないことは他人のせいにしたい。
劣等感は他人を貶めることで直視するのを回避したい。
人生が往々にして堂々巡りなのは、己の中の思考と感情が、


変容する性質のものだと体感から理解していないから


です。頭の理解は無意味です。
ハラの底から、異質なエネルギーがあることを理解するには、実際に遭遇するしかないんです。


人は、己を理解していないんです。
真っ黒い洞窟のように、口を開けている無意識の深淵に、入っていくしかないんです。


いまこの瞬間、ちょっと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ退屈だとしますよね?
これが宝なんです。


ちょっとだけうんざりしていても、ちょっとだけ怒りをもっていても、ちょっとだけ泣きそうでも、ちょっとだけ寂しくても、


これがこの世に生まれたかった理由そのものなんです。


いまの己の感覚そのものが、遭遇したかった金山なんです。
ありがとう。あなたにあいたかった。よく顔をみせてほしい。


レスターなら、これは愛に変わるかな?と問うでしょう。
変えたいという気持ちの方をほどくことができるか試してみるでしょう。


ニュースを見てください。醜いもので溢れています。
そしてその醜さは、己の内側にある批判なんです。


この批判は、本当に「外側に向いているのか」確かめてみたことがあるでしょうか。
実は何かを恐れていたり、何かを責めていたり、何かを変えようと「抵抗して」いたり、
そういうあり方が既にあるのではないでしょうか。


わたしたちが求めているもの、本当の本当に求めているものは単純なんです。


わたしたちが求めているものは、
一切疑問が起こらなくなるほどの至福の光です。今この瞬間そのものを愛している光です。


遭ったら、即理解してしまいます。なぜなら、「これがそうだとわかる」からです。


それ以外は全部、心の底から魂が求めるものではありません。
ちょっとだけ「疑問」ちょっとだけ「違和感」ちょっとだけ「不安」
ちょっとだけ「反駁」ちょっとだけ「失望」ちょっとだけ「放心」


「なんの疑問もおこりません」
「これがそうだとわかります」


あなたこそが愛と叡智の光です。



どんなときも。


修行です。打ち上げ中も、仕事中も、トイレ中も、何中でも修行です。
特定の条件下で修行するという考え方は、「修行」の対象を資格試験みたいなものだと捉えている証拠です。悟りや覚醒というのは全体性のことです。


それが失われるときとか、修行にしては不真面目すぎるとき、そんなことはありえません。
いつでも、どこでも、いま修行です。


それじゃ気が抜けない?
勘違いです。気が抜けたときも、抜けてないときも、どっちにもある真我です。
真我しかありません。



これから「いま」と一緒になる人はいない。


もう一緒なんです。全員そうです。
だからこの誤解は「自己の内部」にのみあります。
このさかさまに気づけば、「誤解」こそ本体だってわかります。
この「誤解」が、「私」という「人格」であり「意思決定の責任者」なんです。



ながら、はない。


見ることと、聞くことは同時にできないように、感覚器官が「同時に働いている」というのは想像に過ぎません。実際は、思考中は他の感覚のすべてが遮断されています。


考え事をしながら歩いている人を想像してください。
その人が赤信号の横断歩道に入ってしまうのは実際に見聞きしていないからです。


考えながら「歩く」ことは同時にできていると見えますが、
同時にはできていないんです。高速で、足と、考えに意識が行ったり来たりしています。
歩行をある程度自動化できる脳の部位があるのだと思います。



間髪を容れずに想いが動いてついていくから、つながってると錯覚してしまう。


0.1秒と0.5秒の間ですからわずか0.4秒の間にマインドが絡みついています。
この影、シャドウを断ち切ります。


一回断ち切るのは簡単。
その後自己の想念のパターン、自己を責めるパターンなどを許しながら断ち切る意識の向け方を練習します(これが練習も何もないデフォルト視点だったと気づくまでは)。


複雑ではありません。「ぜんぶ関係ないよー」という視線を向けるだけです。
目の前の展開、知らん。
この考え、知らん。
選択の可能性、知らん。
善悪、知らん。
私という個人なんか知らんのです。


善悪を含む「自由意思決定」については0.1秒が達成できてからの話にしたほうがいいです。
その前にこの判断に巻き込まれると、0.5秒の善人(葛藤だらけの善人)になります。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody