なにももってなくてもいいじゃないか


手放すって何だろう?ってずっと思ってました。
それって、いまここにあるものに気づくのを邪魔している「所有」を手放すってことだと思います。


「所有」って観念なんですよね。
その観念を持ち込まなくなったときに初めて、いまここにあるものに気づくんです。


これってね、愛だと思いませんか?


いつも、ともに、あるんです。
これを愛と呼ばずに、何を愛と呼ぶんでしょう。


マイホーム、マイカー、マイネームとか。
マイを取ったら、ただのホームで、ただのカーで、ただのネームです。


境界線はなくなってしまい、ただいまここにあるものがいまここにあるだけになります。


そして、そのいまここにあるもののなかに、わたしが含まれてしまっているので分離がありません。


わたしって瞬間だった。
わたしっていまだった。


いまって名前も記号にすぎません。これはもう、何でもないですよ。


ただ与えられているプレゼントです。
これにすべてを与えられている、そうじゃありませんか?


過去を振り返ることだって、このプレゼントのおかげなんです。
未来に希望をもつことだって、このプレゼントがあるからできます。


木彫りの彫刻は、彫る前はただの木ですよね。
そこにイメージを持って、像を彫り出します。


これは行為者という像を彫り出すのと何も違いがありません。
像ばかりに注目してきたけれど、私を彫り出す前の「木」はなんですか。


この木は「いま」です。「瞬間」です。
これは常にともにあるもの。愛です。


私は肉体っ。このイメージが像を彫る行為です。


肉体。肉体。肉体。肉体。肉体。


このイメージを押しつけなければ、ここにある愛に気づくんです。



槍かシャベルか


それは解釈ですよ。
可能性はどちらもあるし、どちらでもないかもしれませんし。


己の内側で盛り上がった解釈にリアルタイムで気づいていることを「事実」と言うんです。


肉体を境にして、内側と外側を分ける場合、
A,外側には注意を払うが内側には払わない。
B,内側には注意を払うが外側には払わない。
C,両方に平等に注意を払う。


の3パターンがあります。
大抵はAになってしまうんですよね。


Aを選ぶと、自己尊重できずに、振り回されはじめます。


Bは悪くないんですが、やはり不自然です。


Cだけが、自然です。






ちょっと懐かしい曲を。また明日です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody