すべてがさかさま(この状態以外を求める「ことができる」のは誰の作用?)


夜熟睡しているときは、この状態(現状)以外を求めることはありません。起きてから「何者」かが「求めることを可能にしている」ことになります。


「求めることを可能にしている何者か」に「自覚的か無自覚的か」を意識してみます。


もし無自覚的なら、根源に盲点があり、犯人探しの主体が犯人であり、泥棒が警察のふりをして泥棒をつかまえようとしている構図です。


この状態以外を求めているとは、記憶を引用して記憶の「地図」と現実の「土地」を比較参照している状態であり、


地図をしまわず、地図そのものが人格をもった主人公だとなぜか錯覚して活動している状態です。


昨日を生きた私がいる、というのは事実ではなく、想念です。


いま歩いているのは人格をもった主人公であるというのは、想念です。


そこには誰もいません。


表現としては「誰かが、何かを、見る」という表現にならざるを得ないです。
「誰かが、何かを、体験する」と書くから伝わるのであって、あくまで伝えるための様式にすぎません。


実際にあるのは、体験のみです。この体験のみが何であるのかは科学でも常識でも解き明かされていません。


人間は単に肉体である説というのは非常に粗雑で、目にみえることしか扱っていません。
紫外線や赤外線、ラジオの電波すら、常識が浸透する以前は存在はありえないものだったと思います。


想念が発生するたびに


思考A+私B


が必ずあること、私Bが往々にして無自覚なまま思考Aの観察に入ってしまう泥棒警察さかさま捜査が発生してしまいやすいです。


私Bは私Bをつかまえる力は持っていません。


なぜなら私Bは存在しない錯覚(ただの自己イメージという地図にすぎません)だからです。


実際に存在する真実、真のわたしにとどまるということは、


私Bの遮る動きに自覚的であるということです。
私Bは想念の発生とともに「遮断」を入れてきます。


私Bに自覚的であるとは、私Bにできることではありません。
私Bに1秒以内に気づくようなら、それはあなたが青空を焦点におさめているからです。






最近、朝さっと書くのがやっとです。寝落ちです。
寒くなってきましたし、みなさん体調には気をつけてくださいね。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody