もう持ってるよと自分で自覚する意味


もう持ってることが本当に自覚できている場合はくつろいでいます。緊張しているのはもう持ってるよと「ほんとうには感じていない場合」だけです。


それは「あらゆることを」受容する心境に至っていないとも言えますし、
「行為者がいる」という考えをぎゅーっといまこの瞬間握りしめているとも言えます。


それは想念ですが、その想念を流さず、気づかず、いま握りしめています。


握りしめる動機はコンマ0何秒の超微小のタイムラグです。ほんのわずかにあなたは
「いまを見ていない」んです。


見ようとしても無駄なんです。
見ることができないほんのわずかなスペースを「行為者がいる」という想念が埋めているからなんです。


それは非常にぴったり閉まる「はずの」ドアにほんのわずかに
「行為者がいるよ。名前は○○(あなたの本名)、そして今日やるべきことは△△」
と書かれた紙が挟まっているようなものです。


この「挟まっている紙」に気づくというのは感覚的には難しいです。
気づこうとするのではなくて、


すべてを他人事として見るように感じます。行為者などいないというのは、すべての決定権にわたしを含めて「誰も」関与していないということです。


門外漢。他人事。傍観。無力。夢幻のごとくなり。


ですが夢幻を「夢幻として」見ていることは、
夢幻を「現実として」感じ、同一視し、巻き込まれている感覚とはまったく違います。


まるでもう一人の自分が、この人(自分と呼ばれる肉体と理性のすべて)の動向を未知の地平線(次にこの人がどう行動するかまったくわからない起こりの地点)から眺めているような


二つの現実の交差をギャップのように感じます。
これが始まりの感覚です。感覚はとても微妙なものなので、味わえていないと「考えて」はダメです。


味わえていない人はいません。
それは「行為者が存在する。動きまわっている私の肉体のことです」というただの想念にゆだねていないときの「デフォルトの感覚」であり、人生で無数に体験されているからです。


体験できていない人など一人もいません。
あなた生きてますよね?生きているとなぜいま断言できたんですか?生きている感覚が確かにあるからですよね?在る感覚が確かにあるからですよね?


在る感覚は確かに在るけれども、ふだんその感覚のみを自覚しているでしょうか?


いいえ。ふだんは誰も自覚していないはずです。


その自覚(わたしは在る)=未知の地平線=他人事の視点=すべてへの平等な気づき


同じものなんです。






静寂は状態ではない、ということの「莫大な意味(それはまるで莫大な遺産みたいなニュアンス)」を感じられたら、常に在るため安心します。


限定されたものじゃない「実感」とは「無限の実感」であり、それはつまり「有限の現象とは違うものを感じながら」行為しているということです。


「在る」ことと「する」ことを同時にするなんてかっこいい言い方もありました。


バシャールは読んだことがなく、また動画に共感したこともないんですが、これは少しいいなと感じました。曲がいい!また明日です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody