フィルムが上映されているが、あなたは「上映されていない」です。


フィルムとわたしをごっちゃにしている(現在進行形)。
(この場合のフィルムとは肉体・思考・感情・世界です)


これが同一視、葛藤の源です。
だから苦しみます。ごっちゃにしてから解決策を求めても、そこは大混乱の世界です。


「ごっちゃにするのをやめる」しかありません。
ここは誤解が起こりやすいですが、


「行為者が、ごっちゃにするのをやめる行為を行う」ではありません。


ごっちゃにしていることすら「リアルタイムでもう気づいている本当のわたし」に気づくということです。


行為者が、大冒険をする。というフィルムなんです。


行為者は、いないんです。フィルムなんです。


エゴ、一人の人格という実体はなかったんです。フィルムなんです。


自由意思があるよ。フィルムじゃないよ。
という意見はおっしゃるとおりです。


ただのフィルムではなくて、「無限の可能性を上映できるフィルム(=虚空)」なんです。
自由意思に反応して、上映されている内容が変わるフィルムなんです。


お昼に天丼を食べようというヒラメキが訪れるフィルムと、
カツ丼を食べようというヒラメキが訪れるフィルム、
無限の可能性があらかじめ用意されているということです。


天丼その後→
カツ丼その後→


というように、上映内容を選択できる場面が複数ある、というより全ての瞬間に選択できるようになっています。フィルムの常識を覆すフィルムです。


nobodyの経験から書きますが、これはエゴに実体が存在しないことにはっきり気づくまでは、
自由意思などまったく存在しないと思っていた(思い込む)ほうがずっと早い気がします。
覚醒するまでは、フィルムの内容が変わる、変えられるという側面に注目しないほうがいいかもしれません。


なぜかというと、自由意思のことを考えるたびに、
「分離した行為者が存在している」という想念に焦点をあててしまい、その行為者の大冒険フィルムがまわりだすからです。覚醒はこのフィルム上映の「同一視」から抜けることですので、(覚醒という目的に関しては)この習慣はすごく邪魔になります。


数日前の動画でムージが語っていた
車のワイパーを動かしたら、ワイパーの動きとともに車を右往左往させるドライバーたち。


それはワイパーと自分を同一視している、言い換えると
思考、想念の内容と自分をごっちゃにしているということです。


それ以外の運転方法が思いつかないぐらいに、ごっちゃにしているという現実を喩えていますがわかりやすくていい喩えだと感じました。






魂で生まれたなら人生には取扱説明書を完備しておくべきだって思いませんか?


逆に考えてみます。
もう取扱説明書は完備されているとしたらどうでしょうか?


知るべきことは知られていて、もうこの瞬間にぜんぶある。
不足は、ない。


だとするならば。いま取り組んでいる課題は、いま取り組むべき課題であり、
ここで取り組まないなら、あの世まで追っかけてくるだろうということです。


わたしたちは、必要なことに取り囲まれているんです。
それは愛であり、それはわたし(魂)の内面が周囲に顕現してくださっていると言えます。


現れてくださってありがとう。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody