純粋


コップのなかに水があり、泥を入れてかき混ぜたとすると水は濁ります。
純粋さは、濁っていることもありのままに見る、意思の介入しない見ている、ほっておいてもどうしようもなく気づいている、そういう原初の機能(はたらき)です。


途切れはありません。


都合よく改ざんできるどころか、わたしたちは一歩も動けません。
逆に動こうとする意思(私)が「中に」現れて消えていきます。


この純粋さに抵抗はできません。わたしたちはそれ以外のものではありませんから、この舞台の上で踊るだけとも言えますし、舞台が「無」である以上、舞台の上のあらゆるものも無であるとも言えます。


それは一なるものだから愛だとも言えますし、言っても言わなくても事態は変わりません。


今日のお天気について語ることと、霊性について語ることは等価値です。
評価は「無」であり「愛」です。


原初の機能(はたらき)側と


想念で設定した(練り上げた)側は違います。


練り上げた側にはどんなにわずかでも既に「意図」が働いています。


朝起きてから夜寝るまでの間に、この「意図」だけに連続綱渡りのように注目することを「行為者」と言います。


行為者を演じている間も純粋は失われていません。
行為者は「純粋に」演じられているからです。


自らが不純だと想像するのも行為者だけです。






至高の帰依とは、至高に(のみ)仕えるということだと思います。
それは愛の神に仕えることでもあり、すべての被造物に慈しみと歓喜の視線を(既に)向けている大いなる存在のわたしを思い出すことです。


すべてを受容すること、すべてを受け入れていることが、いまこの瞬間の現実です。
あらゆる被造物は「自由」で、祝福されています。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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