煌(ファン)


Manaさんが洞察されていらっしゃった光の羽の話、わたしはこれからよく使うと思うので煌(ファン)と呼ぶことにしました。


火と皇と書きますから、皇に自由の炎を象徴するようでとても適していると感じます。


煌は見えないだけで、顕在化する前からここに在ります。
すべての貧乏人は、ここで既に大富豪です。
すべての重病人は、ここで既に呆れるほど健康です。


無限の可能性の中で、煌がなぜいまここの状況を設置し、周囲をそれらで取り囲んでいるのか、


それを


偶然だととらえるか、必然だととらえるかでフィルムの展開は大きく変わります。


この世には偶然はありません。
偶然は絶対ない、断じてない、もっとも現実の認識から遠いとフィオラは言っています。


いまここにあるのは必然です。


魂の必要性を満たすべく、わたしが、あなたがこの状況を呼び寄せたんです。


基本的にはシナリオはもう既に完成しています。
愛の神を信じるのであれば、それは適切であり、最高の筋書きであり、わたしもあなたも予想もしない彼方に導く道です。


ゆったり悠然と構えて、存在で在る。
それだけでいい。


わたしたちはいまこの瞬間、完璧です。



know have be 自由の体現


銀行の暗証番号のようなものを扱う話で聞いたことがあるんですが、
鍵には「ノウ」と「ハブ」と「ビー」があるらしいんです。


暗証番号を「知っていること」know
カードなどを「持っていること」have
生体認証などの「わたしがわたしであること」be


beだけが異質です。
beは対象ではないからです。


自由というのは、依存しません。
何者にも依存せず、自己完結しています。


もちろん私たち人間としては、一人で生きていくことは不可能で、常に相互依存の中にあります。
ですが、人間として生きているのはあくまで上映されているフィルムの内容の話です。


わたしたちはフィルムではなく、自由です。


フィルムの内容を所有しているわけではありません。
関係者でもありません。


わたしたちは常に自由として在る、それを忘れていたりいなかったりするフィルムの中の登場人物が上映されているだけですね。


エックハルト・トールが人生の秘密は
常に「スペースとしての自己で在ること、どんなときもスペースを取り入れることができるかどうか」だけが問われていると言っていました。


スペース、空間として在るのか、それとも人間としてknowやhaveにこだわって対象をこねくりまわすのか。


実際問題、この地上の世界で、激痛に襲われるとしますね。
それが肉体的な痛みでも、心理的な痛みでも、激痛は存在します。


激痛の中では能書きは吹っ飛びます。
「nobody!このぼんくら!同一視だとかなんだとかどうでもいいよ!痛いんだよ!!痛いのは現実なんだよ!!」


と言われる方がいれば、まさにそれが現実です。
痛いものは、痛いんです。


痛いときは八つ当たりしたくなりますよね。
目の前にあるものにも、関係の薄そうな人にも、とにかく八つ当たりしましょう。


その八つ当たりの決断をくだしているのは「あなた」ではないからです。
フィルムの中の登場人物○○(あなたの自己像の本名)の八つ当たりです。


人は自分を愛せないとき、他人に痛みを与えてやろうと画策します。


自分を愛する責任を放棄した者だけが、八つ当たりを無意識に行います。
でもそれもフィルムです。本当のあなたは八つ当たりをしていません。


痛い→八つ当たりしまくる

この八つ当たりを「自分の責任」だととらえるか、とらえないかが覚醒です。


それは結局「わたしとは誰なのか?」という根源にのみ起因します。


過去の瞬間のことではありません。いまこの瞬間「わたしとは誰なのか?」とあなたが感じていることがbeでありあり方であり、千差万別の自由の体現です。






誰でしたっけ?バファリンの半分はやさしさでできていると言ったのは。


実際はどうなんでしょうね。半分は愛で半分は叡智でしょうか。
それとも愛が叡智で、叡智が愛でしょうか。


愛することは本当に知ろうとする意思でもあると思いますし、
本当の知識は愛以外のものではないとも思います。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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