江戸時代 胃の直立


腹がたつという言葉は、科学的に正しいんですね。胃が直立するんだそうです。
この言葉は江戸時代に生まれ、江戸時代の先達は体の感覚にそれだけ鋭敏でした。


わたしたちは純粋な覚醒そのものですが、肉体の動きのすべてに本来は鋭敏です。
肉体感覚そのものが、わたしたちの体験の核です。


いのちの感覚を体で感じるために、ここに生まれていると言っても過言ではないです。


胃が直立したかどうかではありませんが、肉体の中でエネルギーがどう流れているかにはもっと敏感になってもいいのかもしれません。


あるブログで読んだのですが、胸がつまっているかどうかにはもっと注意を払ったほうがいいと言われていて、鼻炎のように納得してしまいました。


胸が長年つまっている人は、つまっていることが普通になってしまっていて、つまりがとれた感覚がなかなかわからないんだそうです。


最初はつまりがとれたことにスースーするという違和感を感じるぐらい慣れていない、と。


気詰まり、と言いますが、気詰まりを起こしていることに敏感でないと体内の調整の基準がわからず迷走してしまうのかもしれません。


西欧科学が発達する前の先達の肉体感覚にならう必要があるのかもと感じました。



本当の現実に注意を注ぎ、理想によって注意をそらされない。


非暴力、謙虚、徳高く、誰に対しても優しく丁寧に接し、いつも笑顔で、うんぬんかんぬん。


こういう理想をもち、日々努力する人は、本質的に邪悪で、傲慢で、恐怖に駆られているとクリシュナムルティは説きます。


わたしもそう思います。


極端な話ですが、殺人を最終的に、最後の最後で止めるものは、
「殺意を抱いた自分をじっと見ている」こと(が可能であること)です。


自殺も同じです。
自殺を思い悩むような人に対して理想を語るのは厳禁です。


「私」なく共にあってください。彼や彼女が、自分自身(嫌悪している自己像)と共に在ることができるまで、場の静寂に共鳴します。それ以外は助けになりません。


絶望を抱いた自分をじっと見ているとき、絶望は変容します。


自分と「ともにある」ことを回避して、どこかへ「移行(逃避)しようとする」者はどこにもいけません。同じ状況を長引かせます。


自殺願望・殺人願望が危険なのはこの逃避目的であることに自分が無意識だからです。
自己認識できている者は、最終的にはこれらを選ぶことはありません。


苦しい、だから(自分から)逃避しよう、は逆なんです。
苦しい、だから真正面から(自分と)ともにあろう、が一番状況の本質を明らかにしてくれます。


「この自分、にノー」と言っている者はそれだけ危険です。
最初は理性的で小さなダメだしに思えるかもしれませんが、成長して巨大化すれば兄弟姉妹を巻き込む惨事につながります。


「この自分、にイエス」いつもここからスタートです。
いまのわたしと、あなたのことです。



ほっときゃイエス


なのに、部分的にイエスと言うから、部分的にノーと言ったことになるんです。
部分的にイエスと言うということは、部分的に嫌がっているんです。


わたしたちがイエスです。
部分的に焦点をあてるマインドの機能により、部分的にイエスという機能を最大限活用しています。


しかし部分的なイエスは執着を可能にし、それ以外の部分にはノーと言うことになります。
これが苦しみです。


1、ほっときゃイエス
2、部分的にイエス


選択肢はどちらかです。ほっとくとは無関心であることではありません。
ともにあるということです。特に意図なくともにある。


ほっとくなら、流れていきます。
理想をめざして努力する、常に夢を描いて現状否定すると、
部分的にイエス裏返せばノー、によって本来のエネルギーが浪費されます。


マインドは動きまくっています。
部分的!部分的!部分的!
部分!部分!部分!
ノー!ノー!ノー!


これが静かになったとき、ほっときゃイエスが輝きます。


どうすれば静かになるかと言うと、マインドが消滅するか私が消滅すればそうなります。


正確には消滅ではありません。
元々存在していないので、「存在していなかった」と気づけば静かになります。


逆に言うと、「存在していなかった」という気づきなしでは静かになりません。
いつこの気づきが得られるでしょうか?


いまです。
いま、を3ヶ月後に延長するようなら、3ヶ月後もきっと無理です。


いま、延長なしで、いますぐ「存在していなかった」と気づかない限り、あなたは静かに戻れません。


あなたは、いま、認識しなければなりません。
あなたの言う、「私」は存在していなかったと認識しなければなりません。


さあ「私」の正体はなんでしょうか?
想念ですよね?概念ですよね?思考ですよね?肉体をもつ個人だよという想念ですよね?


これが想念にすぎないことを「いま」見抜いて
私が「存在していなかった」と認識している(現在進行形)こと。


これでやっと静かになります。


私はいないと自覚していることが自由へのパスポートなんです。






圧巻です。パパジのこの誘導を見せていただくと、教師と呼べる者は世界にあまり存在していないのではないかと思わせるほどの質の違いを感じます。


風水の先生(蔑視的な意味で書いているのではありません)がたとえば、玄関に置く置物の位置をずらしなさい、ちょっとだけ変えなさいと言うタイプだとします。風水はもともとそういうものですよね。


風水と同じく、この世の中の教師は99.99%何かを変えなさいというタイプです。
何も変えなくていいと言うタイプはほとんど存在していません。


特に、何も変えなくていいことを説得できる教師がほとんど存在していません。
聞き役の疑念を乗り越え、貫通するように言霊がやってきます。


直接習うならこういう方に習いたいです。


フィオラの意見はこれに関しては明確です。


「教師のせいにするのは生徒の怠慢であり、すべてが師と感じることができる在り方こそがあなたの教師です」



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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