人生は今この瞬間複雑ではないんですよね
あるものがある。ところがないものをあると想像すると途端に複雑になるんです。
これですね、紙一重です。
紙一重なのに、天国と地獄の差です。
蜃気楼の川をめざして砂漠を歩くのと一緒で、延々と歩こうとも水にはたどり着きません。
ですが、砂漠の一歩は現実です。
この一歩を大切にする、調べてみる姿勢がエネルギーの浪費を防ぐ転換の始まりになります。
一番やめたほうがいい想像は「私がいる」です。
肉体の中に、「私がいる」。
これは今この瞬間の正確な観察からではなくて、吹き込まれた観念の地図に過ぎません。
名前をつけるのは、デフォルトの空白の後の行動ですよね?
デフォルトの空白「(名前をつけずに)ただ、ともにある」をわたしたちは軽視しているんです。
朝起きます。
個人として起きてください、とお願いした者は誰もいません。
そんなことを依頼されて一日が始まったわけではありません。
○○という個人として、起きた(と思っている)のは不自然なんです。
それは頭の中だけで名づけられたシールです。
それに、本当に、起きたんでしょうか。肉体が縦に起きたから、二足歩行しているから起きたんでしょうか。
常識を覆す疑問ですが、あなたは起きていないのでは?
肉体が立ち上がって歩行し始めたけれども、あなたは夜の睡眠中と変わらず、眠りから起きたわけではないのでは?
あなたは24時間気づいているだけで、見ているだけで、
見られている肉体が眠って起きたのでは?
肉体を個人として捉えたのは、思考では?観念では?実体ではないのでは?
イエス
既に実現されている「から」価値をもつんです。
いまから未来に実現させるのでは価値はありません。
わたしたちは既に「実現されている」ことに気づけます。
変化ではありません。
実現されていることに「観念だけがノー」と騒ぎ立てている滑稽な状況から抜け出すことなんです。台無しを上書きするのをやめる、ということです。
この観念を静める方法は実はひとつしかありません。
騒ぎ立てていること自体に「イエス」と言うことです。
ノーということ自体が、騒ぎ立てることだからです。
イエスかノーかではなく、イエスかノイズかです。
この「イエス」によって、自我そのものが空白に変わります。
「もう真我です。体験しています」
それ以外の主張は嘘です。
「もうゴールそのものです」
それ以外の主張は嘘です。
これがゴールなら、こんなゴールはいらない!
それが誤解です。
無限の愛・無限の歓喜・無限の自由は体験の中にあります。
体験をもっていない人は誰もいません。体験をもっていない人見たことないでしょう。
視点と錯覚によって無限を忘れているだけです。
神がわたしたちを失望させること、裏切ることは絶対にありません。
いまこの瞬間の体験に、ただ「イエス」と言い続ければいいのです。
他人に嫌悪感を感じたときは、自分の内に生まれた嫌悪感を愛してください。
捨て子のように扱わないでください。
他人と絶交しても構いません。構いませんから、自分と絶交しないでください。
イエス。認めてください。
この自分が、この自分であることを、ただ認めてあげてください。
言い訳を愛するのではありません。
この自分を、ただ、ありのままに、認めます。
その認める、は行為ではありません。既に認めている「何か」があります。
イエス。
欠乏を埋めようとするのではなく、欠乏そのものを認めてください。
欠乏に寄り添ってあげてください。
イエス。
いまこの瞬間に、ただありのままのこの瞬間に、
イエス。
そう言ってみてください。
いまこの瞬間、いまこの瞬間に、
時間を捨ててください。
非-時間と非-空間の静止している背景の光を感じるのではないでしょうか。
すべてこの光のなかで起きています。
最初からあなたがこの光だったんです。
今までは、限界があると想像した分だけ中心からずれていたんです。
あなたは何者でなくても良かったんです。最初から、あなたの中心はこれだったんです。
限界に同一視するあり方のほうが異常で、
あるがままがデフォルトであるこの感覚、これを思い出していただければ終わりなんです。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody