思考上位の視点


AさんとBさんが喧嘩をしているとして、AさんにはAさんなりの言い分、Bさんにも言い分があります。


お互いがもっともらしく主張している中で、この喧嘩の内容、言い分の吟味に入るとあなたは喧嘩に巻き込まれてしまいます。


別に悪いことではありませんが、喧嘩に巻き込まれていい気分になる人はいません。


あるがままの受容、と呼ばれたり、思考に気づいている視点と呼ばれるものはこのAさんとBさんの喧嘩のどちらにも加担せず、かといって邪魔もせず、喧嘩自体をありのままに見る視点です。


それは思考そのものより「上位の視点」があるということです。


受容することによって超越できるのだとエックハルト・トールは言いましたが、この超越、上位の視点に気づくようになれば、デフォルトの視点は「巻き込まれていない」ことがわかるようになります。上位の視点とは獲得されるものではなく、今まで忘れ去られていたデフォルトの視点にすぎません。


この視点の感覚をつかむのに、人によっては説明に合う合わないがあります。
カルキさん一派の「スライム10か条」はわたしは相当気に入りました。


分離した私がいるという思考こそ根源の思考ですから、


「誰もいない」視点が維持できていること(デフォルト視点を自我が邪魔していないこと)こそ霊性の修練です。


デフォルトの誰もいない空の視点に、


自我が「分離した行為者の私(=肉体)」はここにいるよーと遮断を入れてきます。


この遮断を意識的に観察します。


意識的に観察する「行為」ではないです。
意識的に観察している意識がデフォルトの視点なんです。


邪魔さえさせなければ(行為者の行為だという認識で誤解しなければ)


「(意識的な観察を)忘れることさえ空の一部なのだと忘れないようにする」ことができますから、そうなったらもう失敗はありません。


行為の努力ではなく、(行為者に)行為させない努力です。
未来への努力ではなく、今にある努力です。


行為者に行為させない努力とは、行為者がいると見なさない努力です。
行為者がいると見なさない努力とは、行為者がいると見なすマインドの動きを見逃さない努力ですがそれは行為ではなく…


ですからこれらは円環なんです。
説明は延々と円を描くように同じところをぐるぐる回ります。


ただ在ればいい。
ありのままのあなたで在ればいい。
あるがままで在ればいい。
あるがまま以外があると想像しなければいい。
以外があるという想像を見ていればいい。
ぐるぐるです。






以前レスターの物語を載せましたが、このときのレスターの探求、
幸せとは「愛している」ときに感じていたのだ、どうしてこんなことに今まで気づかなかったのだろうという学びの大きさを改めて感じました。
(大いなるものから愛されていることを感じることももちろん有効だと思います)


人は人を批判しているとき実は、不幸を感じているのではないでしょうか。


今日を愛することができたでしょうか。
いまを愛していますか。


できないならその邪魔をしているものは何でしょうか。


欠乏は粗探しを始めたときにしか経験しないのなら、粗探しを始める正当な根拠はあるのでしょうか。いまを感謝して愛せる方は既に、大いなる目的を果たしているのではないでしょうか。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody