部分的にノーは、部分に焦点をあてていることによって顕れる
究極の対象が部分です。究極は全体であり、原初であり、不変です。
最初からそれは、ずっとそれです。
全体に焦点をあてるという状態はないです。
全体は無限であり焦点をあてようがありません。
全体=部分に焦点をあてていない(現在進行形)
です。
部分に焦点をあて、部分を実在だとみなす機能こそマインドです。
この機能がなければ、人間体験はできません。
この拡大鏡、虫眼鏡のような機能があって初めてわたしたちは行為者を体現できます。
マインドがもたらした結果(現在進行形)の最たるものが、「肉体」は実在である、です。
そして肉体は確固とした存在で、創造力は肉体にのみ宿るというまでの強調された信念に変わります。
肉体が動かなければ移動できない。
肉体が健康でなければ何もできない。
肉体に不備があれば不幸である。
肉体、肉体、肉体。
マインドが肉体に焦点を固定して、それを実在、創造の源だと考えているかぎり現状は変わりません。
体験できるもの、体験そのものは肉体とは一致していません。
肉体の内と外という概念が、本来の一元に二元性を持ち込んでいます。
概念はより自由で、変形可能です。
あなたがボクシングをやっているとして、相手にパンチを正確にヒットさせるには
相手の現在位置を正確に把握していることが必要です。
そうでなければ、パンチが当たるという体験はありえません。
わたしたちの体験には肉体の外側の気づきが含まれています。
体験は、マインドが強調する肉体という概念と一致していません。
部分的に焦点をあてていること、自体が部分です。
何かに注目していることに、リアルタイムで気づくことができます。
気づくという行為を起こすわけではなく、何も行為を起こしていない段階が既に気づきです。
雑
体験できるものすべてがわたしです。
加害者も被害者もないということです。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody