S(深淵)を生きる 足跡11日目



こんばんは。今夜は「ゆだねる」ことについて書きます。自分(自我)よりも筋力の強い人間がいることはわかっています。頭のいい人間も、顔のいい人間もいるでしょう。
では、あなたが今滝つぼに落ちて、渦巻く水流に巻き込まれ、深い川底まで引きずりこまれつつあるとします。呼吸できませんので、時間は限られています。

この水流にもし逆らおうとした場合、あなたは負ける可能性が高いです。
あなた(自我)の力では、冷静に考えてみて水流には勝てません。
残された酸素も筋力も体力も泳ぎの技術も何もかもが、負けるでしょう。

何とかなる!かも知れない!やってみるまでわからない!

おっしゃるとおりです。ただあなたが見落としているのは、あなたには戦う以外の選択肢もあるかも知れないということです。

上記の滝つぼの話は実話です。
この時、その方は引きずりこまれつつある自分と引きずりこみつつある水流を直接肌に感じ、そのまま力を抜き、水流に身を「ゆだねる」ことを選択しました。そして川底まで引きずりこまれ、渦巻きの外に出た瞬間に川底を足で蹴り無事水上に帰還しました。

もちろん「ゆだねる」ことが常に正しい結果につながると保証する人はいません。
一つ認めるべきなのは、私たちは自分を取り巻く状況が「偶然」であると断定する十分な根拠を持っていないということです。

十分な根拠を持っていないからこそ、本当のところは「わからない」のです。
あると断定する根拠もなく、ないと断定する根拠もない。だから「わからない」

それなのに「今」を知っている、私には「わかっている」と自我は思い込みたがります。

いいえ、わからないはずです。
今は常に新しいからです。常に新しいものをどうやって「知る」のでしょうか。

今この瞬間に私たちは「何もわかっていません」
ただ「わからないことを認める」か「認めない」か態度は大きく二つに分かれます。

認めない人の裏には「怖れ」があります。
わからないなら、死ぬかもしれないという怖れです。その怖れは見たくない。
認める人の裏には「正直さ」があります。
わからないし、死ぬのも怖いが、わからない。

状況を混乱させるのは、認めない人の方です。
常に自分が誰かから攻撃される可能性を怖れ、味方が出現しないことを怖れます。
怖れの上に怖れが重なり、それを見ないように目を背けるので本人の苦しみはより膨れ上がります。

ゆだねるにはあまりにも不確かである。だからゆだねない。
不確かだが、全力を尽くしてもわからなかった、結局ため息をついて、ゆだねる。

正直な人は、状況を真っ直ぐにしていきます。
嘘も混乱もありません。

では怖れている人は罪があるのでしょうか?

いいえ。罪などありません。ただ怖れているだけです。
怖れのない人がどこにいるんでしょうか。

絶望的な状況に追い込まれ、味方と出会えず、虐待されてきたように感じている方が心の底から追い求めているのは愛です。正直な人と何も変わりません。

あまりにも残酷な世界が広がっているように見えます。

スピリチュアル。と言っているのが馬鹿馬鹿しいものに感じる残酷さへの怖れが人の内側にあるのです。

神などいない。いたら私がこの手で殺してやる、と。

そういう嘆きがこだましている夜に、フィオラは降り立ちました。

月光が照らす彼女の横顔は静寂に満ちています。

今は深淵です。
覗き込んで暗闇の底に何があるか、私たちにはわからないままです。

それでも今にゆだねるのか。偶然ではない可能性にゆだねるか。
その一瞬の選択こそ勇気です。

今を感じ、今にあり、自己像を正直に認め、深淵と向かい合うか。

深淵の底には愛があるのだ、と主張する人間を信じないでください。

あるのは第三者ではなく、あなたと深淵だけです。

他の人に愛があっても、あなたにはないかも知れません。

結局あるのは、あなたと深淵だけです。

それがどれほどすばらしい計画であっても知ることはできません。
ただ体験があるのです。
わからないまま、あなたと深淵は今向かい合っています。

今夜もありがとうございました。

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