こんばんは。今夜のテーマは「S=リラックス」です。
訓練中にSってどこだっけ?あれ?わからないよ!わかんなくなっちゃったよ!という時がたくさん来ます。そこでSをもっとも的確に定義しようとすると、リラックスになると思います。
わかんなくなっちゃったよ!と言ってる瞬間の気持ちも何もかも気づいているんですからSは健在です。Sの感覚がわからなくなっただけですから、Sの感覚に戻るためにリラックスします。
今あるもの今あるものとしてそのままリラックスして認める。

心がざわついている瞬間に、落ち込みまくっている瞬間に、リラックスするということは、今のざわざわも落ち込みも何もかもをまるごと認めるということです。

五感…まるごと認めます。
思考…まるごと認めます。
感情…まるごと認めます。
ドジった…まるごと認めます。

そんなの普通の日常と変わらないよ!?

いいえ、違います。
普通は「自然音」すら無意識にカットして「今」を生きています。日常を好き勝手に改変して生きているんです。自我が、無意識に、「今」を改変してからあなたに届けています。自我に悪気はないんです。改変しようという根性こそが自我なんです。

自我は落ち込むとか嫌な感じがする状況をきっと認めません。あるがままの今に対する抵抗勢力が自我です。

たとえばSの位置を松果体だと思っていると、松果体にうまく接触できない時にSは失われたと思いがちですが、Sは継続する実体ですから、呼吸より確かにあなたであり続けています。松果体に触れられない時もです。肉体がなくなってもSは消えません。

S接触にあなたは今までどれだけ失敗してきたでしょうか?どのくらいの時間でしょう?
「0秒」です。あなたがS接触に失敗したことはかつて一度もありません。
何もしなくてもそれはある。あなただから。それをSと呼ぼうが何と呼ぼうがあなたです。

Sが継続しているのであって、私たち(自我)のほうがずっと気まぐれなんです。

問題は逆さまです。S移動やS接触に訓練が必要なのではなく、「Sを大体常に忘れているまま」思考し、行動し、反応してしまう癖は「どうやったら治るのか」という話です。
私たちが思考にいつも振り回されている癖はどうやったら治るのか。答えはリラックスです。

リラックスが難しいというのは事実ではなく。
自我が無意識に難しい難しいと心の中で言っているだけです。それに意識的に気づいていないんです。何かを怖れていて、それを認めたくないとかそういう理由もよくあります。

私たちは訓練前に「矢印マスター」です。常に矢印矢印。なんでもかんでも矢印を指します。
訓練中は「リラックスビギナー」です。定着後はなんでもいいや~の本来の「リラックスマスター」に戻ります。それって戻る価値あるの?矢印マスターはすぐ聞きます。

価値があろうがなかろうがいいんです。価値があったら認めますし、なかったら認めます。
何が来ようと認めます。そこに何があるかは一人一人の最大のお楽しみです。

今リラックスに溶けきっている人が悟りです。

「今をまるごと認めちゃう」ことが「悟り」につながる道である可能性をゆっくり検証してみてください。

リラックスはだら~んとするだけに思われますが違います。
リラックスにはもう一つ大きな効果がありまして、それが「矢印」に気づく力なんです。

それは意識がリラックスしているからこそ、矢印がすっきりわかる力です。

たとえば心がごわごわしている時、まるごと認めるとごわごわをごわごわとして感じます。

ごわごわはごわごわしているからいけない!という矢印がないから、その動き、エネルギーの質、断続性、原因となった思考、全部ピンときます。

これがSです。

何かを「変えたい」という矢印そのものをまるごと認めるので矢印に同化してしまうような気がするでしょうが違います。まるごと認める地点はまるごと気づく地点です。
何かを「変えたい」矢印のエネルギーは「有限」であり、消えていくものであることに気づきます。

まるごと気づく地平があなたであり、継続しています。

あなたの地平線は光に満ちています。

努力せずに勝手にどんな時も継続していますから、維持の努力は無意味です。

することは今リラックス。今リラックス。今リラックス。

これがS移動です。

今リラックスしながら~「見る」「聞く」「考える」「会話する」「何かする」

これがS接触です。


リラックスという言葉を書いていて、疑問が沸きました。リラックスしようという時点で指向かもしれないです。言葉で表現できないものを表現しようとするのは矛盾しか出ません。全面的に今を認めると書くと、今を認めないという対極の概念も発生します。認める云々の前に、コントロールできない気づきがあることにどうやって気づくか。気づくことはコントロール不可能で、気づかないこと自体ができないんです。今無数の気づきがあります。無数に見えるんですが、ひとつの気づきです。このひとつの気づきが自分の本体であることにどうやって気づくか。今にある、という表現が適切かも知れないと思いました。今肉体があり、五感があり、思考があり、感情がある。その他の全てがある。これに気づいているから、あると言えるわけです。では気づいている主体は誰なのか?何なのか?思考観察は思考という部分を軸にして、気づいている主体を思い出す取り組みです。でもそれは方便であって、気づきは思考以外の全てにも気づいているわけです。連続同時的に、気づいています。気づかないことが不可能で、気づきは私たちにはコントロール不可能です。ではこの気づきの主体の本当の力、今、ありのままの気づきに完全にゆだねるならば、何が起こるのか。この記録をとってみることにします。

今日もありがとうございました。
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